その目に自分だけを 2
朝になってディオはジョナサンと、いつものように交流結果を報告し合っていた。
「ガーラッド家は友好的だが、あそこは力が弱いな。まあ、敵になることはあるまい」
「グラント卿が娘さんをすすめてくるんだけど……まだ、交流しなくちゃあならないかい?」
ジョナサンはうんざりしているようだった。あそこはジョナサンを大層、気に入っているようで、彼に任せている。
「許嫁がいると諦めさせろ。前からの交流があったところだ。早々は切られんだろう」
「一応、言ったんだけど……」
彼には想い人がいる。共通の友人だ。数瞬間前、こちらに帰ってきていた。
「エリナを連れていけ。今度のパーティーにでも……」
紹介しろと言いたかったが、彼の何とも言い難い視線がこちらに向けられ、言葉を切る。
「なんだ、その目は」
的確なアドバイスのはずだ。彼女を連れていけば、万事解決だろう。彼女を見れば、グランド卿も諦めがつくだろう。
「いや……なんでもないよ」
そう言って笑い、招待状を差し出してくる。
「次はミランガル家。久しぶりにそこまでパーティーがないね」
先日、送られてきたものだ。それを笑顔で受けとる。
「ああ、休む。おまえがもう少し有能なら、こんなに苦労せずにすむのだがな。招待されている家を調べさせよう」
連日連夜のパーティーに疲れきっていた。重いドレスとは少しの間、おさらばだ。
ジョナサンが何か言おうとしたその時、部屋の外から何かが落ちた音がした。
「どうしたんだい!?」
扉を開け、見てみれば、倒れている使用人がいた。
すぐにかけ寄る。彼女のそばには崩れている脚立。
「大丈夫? アニー」
新人だった。顔を上げる彼女に手を差し出すと遠慮がちに手に触れてきた。
「だ、大丈夫です……」
起き上がるのを手伝っているとジョナサンは脚立を見ていた。足が折れ、上の板も割れて横たわっている。
「古くなっていたんだね……新しいものを用意させないと。アニー、怪我は?」
「してません……」
彼女は立ち上がると申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当? 痛むところはないの?」
「あ、ありません。ありがとうございます」
何かあったらいけないとしつこく聞いたが、彼女は困ったような顔をして、ありませんと答えるだけだった。
「丈夫なのが取り柄なんです、わたし」
弱々しい笑顔を浮かべる。
「そう……ならいいんだけど」
何かあったかと来た使用人に脚立が古くなっていて壊れたことと、アニーが落ちたことを伝え、少し休ませることを言いつけた。大丈夫と言っていたが、やはりどこかを打っているだろう。
他の脚立も点検もするように言い、付きそわれて部屋に戻っていくアニーを見送った。
倒れた時に腕をうったらしく、そこが少し痛んだが、作業もできるので湿布を貼り、アニーはすぐに戻った。
無理はしないようにと言われたが、腕も動くので黙々と掃除を続ける。
掃除が終わり、道具を片付けようと廊下を歩いているとメモが落ちていた。何が書いてあるか分からない。文字が読めないのだ。
誰か読める人はいないかとあたふたしていると後ろから声をかけられ、驚きながら振り向けば、ディオがいた。
「どうしたの?」
「あの、メモが落ちてまして……」
不思議そうに彼女はこちらを見ていた。何かに気づいたのか、メモを見せてと手を差し出す。彼女に渡せば、これはジョナサンのものだと言う。わたしから渡しておくと彼女は笑う。
「あなた、文字が読めないの?」
「す、すみません……」
教養がないなんてと責められるのかと謝ってしまう。今は仕事を口で伝えてもらっているため、今のところ、不自由はないのだが。
「アニー、少し時間はある?」
うつむいていたが、顔をあげた。そこには優しそうな笑顔があった。
「え、は、はい。洗濯物を取り込んだ後なら……」
予想していたものと違う言葉と表情に戸惑う。
「なら、終わった後にわたしの部屋に来て」
待ってるわと彼女は背を向ける、その背が見えなくなるまで見つめていたが、彼女との約束を守るために洗濯物を取り込もうと歩き出す。
用事を終わらせ、アニーはディオの部屋の前までやってきた。
ノックをし、名前を呼べば、返事が聞こえた。扉を開けると、彼女は手招きをする。
「さあ、座って」
彼女は椅子に座るよう促す。その前の机にはペンとインクと開かれたノートがあった。
「あ、あの……」
彼女は意味が分からず、戸惑っている自分を椅子に座らせる。
「文字の読み書きを教えるわ。できたほうがいいもの」
そばに立つ彼女を驚いて見上げる。
「そ、そんな……」
主人が使用人の自分にそこまでするなんて。
「アニー、利き手はどちら?」
言葉を遮られ、彼女は笑っていた。その笑みには反論は許さないと言っていた。
こちらだと右手を少し持ち上げると手が掴まれ、ペンを握らされる。
「まずはペンの持ち方よ。指をこっちに……」
彼女の手がペンを持たせてくれた。彼女の綺麗な白い手と比べ、水仕事で汚れ、ガサガサな自分の手がとても汚ならしいものに見えた。
「まずは……名前ね」
彼女は自分の手に手をそえたまま、ペン先にインクを付け、ノートに文字を書いていく。
「A、n、n、i、e……アニー」
ノートにつづられた自分の名前。もう一度と言うと、また自分の名前がつづられていく。
「じゃあ……自分で書いてみて」
彼女の手が離れていき、名残惜しいと思いつつ、彼女を見上げると彼女は何かに気づいたように、あっと声をあげる。
「いきなり、書けと言われてもできないわよね。一文字ずつ教えるわ」
また彼女の手が自分の手に添えられる。手が動かされ、Aという文字を書いていき、次々と文字が書かれていく。
「これは……次は……」
一通りのアルファベットを書き終わると、彼女は書いてみてと言う。
彼女が書かせてくれたものの下に真似てアルファベットを書いたが、崩れた文字ができあがっていく。
汚い文字だと言われると彼女を見上げると微笑んでいた。
まるで天使のようだと思った。
「ゆっくりでいいの。慣れたら、綺麗に書けるようになるわ……だから、毎日、練習しましょうね」
自分は何度も頷くだけだった。
部屋を出るときに、また明日とディオは笑った。
頭を下げ、扉を閉める。
彼女に触れられた手の感触がまだ手には残っている。白い指先が自分の指に重なり、やわらかく滑らかな手のひらは甲に。脳内で何回もその感触を反芻していた。
夢心地の中、ふらふらと部屋に戻った。
休憩時間なので、同僚たちはお茶をしていた。
「あなた、お嬢様に文字を教わっていたの?」
部屋に戻り、そう声をかけられ、驚いた。まだ言ってもないのに。仕事をさぼっていると責められるのだろうかと不安になる。
「お嬢様が文字を教えるから、あなたに少し時間を作ってと頼まれたのよ」
「字は読めたほうがいいわよ。頑張りなさい」
「は、はい」
責められることはなく、逆に励ましてもらえるとは。
「ほんと、ここの主人たちは優しいわー。私の友人のとこなんて馬車馬みたいに働かせてるみたいだしー」
分けてもらった菓子を食べるかと皿を指す。
椅子に座り、お菓子を食べる。
早く明日にならないかと自分は思いながら、口の中のお菓子を噛み砕いていた。
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