笑う者 泣いている者 1
「ディオ」
名前を呼ばれ、ディオナは目を覚ました。自分が座っているのは椅子。上体を預けているのは机。手に触れるのは本。屈んで覗き込んでいるのはジョナサン・ジョースター。本を読んでいるうちに寝てしまっていたらしい。
「起こして、ごめん」
彼が自分を起こすことはあまりない。こうして寝ていれば、ベッドにまで運んでいる。目が覚めたら、ベッドにいるということは珍しくない。
起こす時はいつも決まっていた。まだ頭は起きていないが、もう習慣となりつつあるので、体は勝手に手を彼の方へと向けた。手に噛みつかれた痛みで一気に目が覚めた。
これは食事だ。ジョナサン、吸血鬼の。彼は血を飲み下していく。口を離せば、牙の痕から血が流れていくのを舌が舐めとっていく。
「ごちそうさま」
食事が終わり、見た手に傷はなかった。この体は治癒力が高く、傷などはたちまち治してしまう。吸血鬼が殺してしまわないようにというただの処置に過ぎない。歳もとるのも緩やかだ。
それも、食料を長持ちさせるためだけの処置。
しかし、若さを保ち、長く生きられるとわざわざ吸血されにくる人間もいるらしい。どこでそんな情報を手に入れているのかは知らないが。自分は吸血をしてもらわなければ、朽ちてしまうのだ。
元は半吸血鬼だったのだが、ジョナサンに血を与え、彼を吸血鬼にした後は人間となった。その後は普通に生きられる訳ではない。体に制限が設けられてしまうのだ。
普通の人間とおなじように飲食をしなければ、いつかは死んでしまうし、吸血鬼に吸血をしてもらわなければ、飲食をしてようが、生き絶えてしまう不便な体だ。本当にそうなるのかは推測しでしかない。それを試そうにもリスクが高い。
そんな脆弱な存在になったのは吸血鬼の血を捨てたいと、ずっと思っていたのだ。母と同じ人間に。
しかし、人間になろうにも、自分を見捨てない吸血鬼になる人間が必要だった。ジョナサンはその条件がそろった人間だった。彼は吸血鬼になっても、血を吸うことを拒否していたが、今では自分から求めるようになった。
人間をやめさせられ、その違いに戸惑い、苦しんでいたが、少し前に受け入れたのだ。なった直後は怒りをぶつけられたり、暴走した彼に傷つけられたりしたが、その度に優しい彼も傷ついていた。
その姿はもう見れない。それは少し残念に思っている。
「……」
ジョナサンは手を添えたままで、離れていく様子がない。生唾を飲んで、熱を持った目がこちらを見ている。我慢しているのか。
「ジョジョ、足りないのか?」
そんなことはしなくていい。もっと飲めばいい。彼が満足するまで飲んでも、死ぬことはないだろうから。
「い、いや、充分だよ」
手が離れていき、ありがとうと言うと彼は部屋を出ていってしまった。閉まった扉から視線を外し、伸びをする。閉じてしまっている本をまた開け、眠る前に読んでいたところを探す。
ジョナサンは自分の部屋に戻り、扉を背に座り込んだ。あの時から――自ら望んで吸血した時から、おかしい。その後に襲ってくる性的興奮。よく分からないが必ずそういう気持ちになってしまう。
理性が崩れていた時や、強要されていた時にはなかった衝動だ。
「……はあ」
自分の股間も主張を始めている。処理はいつものことだ。浅ましい。食欲を満たしているのに性欲まで彼女に押しつけるわけにはいかない。
彼女に抱きたいと言ってしまえば、それは命令になり、彼女は嫌でも拒否できずに受け入れてしまうだろう。吸血した者には吸血鬼の命は絶対だ。
人間のころにそれは体験しているため、理解している。そこまで彼女を縛ることはない。
ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。
風呂場から戻れば、なぜかベッドに腰かけているディオがいた。部屋の扉の鍵は閉めていないため、出入りは勝手にできるが。
「……!?」
「邪魔しているぞ」
誰もいないと思っていたため、自分は何も身につけていない。
自分の格好を彼女はただ見ているだけで、目もそらすことも、隠そうとすることもない。
「いい体をしているじゃあないか」
自分の姿をまじまじ見て、そんな感想を暢気に言っている。固まっていたが、このままではいけないと風呂場に戻る。
前も見られために今さらなのだが、気にしてしまう。篭に入れていたバスタオルを取り、それで下半身を隠し、部屋に戻った。
「ぼ、ぼくに、なにか、用?」
顔を真っ赤にして動揺している自分と平然としている彼女。自分たちの反応は立場的に逆な気がする。
「いや、別に」
彼女はそう言い、持っていた本を広げる。今さっき、来たばかりだろうか。用がないなら、なぜ、ここにいるのだろう。彼女の部屋は隣でそこでも本は読めるはずだ。何かそれができない理由でもあるのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、服を着て、脱衣所にバスタオルを置き、また部屋に戻れば、ベッドに寝転び、本を見ているディオ。
「もしかして、ここで寝る気?」
「ああ。おまえは使わないからな」
自分は睡眠を必要としないため、ベッドは使わないので、そこを占領されるのはいいが、彼女がここにいるのは自分にとっては不都合だ。今さっきまで、彼女を使って処理をしていたため、気まずい。
しかも、眠っている彼女がそばにいて理性が保てるのか分からない。飢えに抗えるのだろうか。
「自分の部屋で眠ればいいじゃあないか」
「どこで眠ろうが、わたしの勝手だろう」
そうかもしれないが、彼女には自分のベッドがある。そこで眠ればいいのに。
しかし、自分は居候の身だ。何も言えないのでソファーへと座る。
ベッドに寝転ぶ彼女を見る。ナイトドレスに身を包み、白い頬にかかる長い金髪に白い細い指でページをめくり、時おり息を吐く赤い唇に文字を追いかけている目。その目がこちらを見た。
冷たい体が熱を持ったような感覚に襲われる。
「ジョジョ」
「な、なに?」
彼女は本を閉じると手招きする。何だろうと腰を上げ、近寄れば、横を叩く。
「寝ろって?」
「ああ」
眠れないということは分かっているはずなのに。急かすようにまた彼女は叩いたため、そこに横になる。毛布や羽毛布団をかけられ、その身を寄せてくる。柔らかい体と彼女の匂いと温かさに動けなくなってしまう。
彼女を見れば、目を閉じて本当に寝ようとしている。抱きしめたい衝動にかられていく。柔らかい体に腕を巻きつかせ、体を密着させ、髪をかきあげて白い首筋に牙をたてて――。
理性がじわりじわりと侵食されていくのが分かる。せめてもと目を閉じて彼女を視界から消した。
「……!」
ディオが動き、一層、密着してきた。目を開けて見れば、胸に顔を埋めてきている。襲ってくれと言わんばかりの行動に理性が揺れている。
誘惑がそばで甘い香りを漂わせて手招いた。その手に引っ張られ、誘惑に溺れていければ、どれだけ楽なのだろうか。
渇きを覚える。先ほど飲んだばかりだと言うのに。彼女の匂いに誘発されたのだろう。大丈夫だと繰り返す。血も体もいらない。あの時の乾きと衝動に比べれば、軽いものだ。
ディオが目を覚ますと少し離れて、隣には本を読んでいるジョナサンがいた。まだ部屋は薄暗い。視線に気づいたのか、彼は本からこちらに視線を移すとまだ起きる時間ではないと微笑む。
目を閉じ、彼に寄り添う。触れるところが冷たい。奪われる体温。同じように彼はこの体を奪わないのだろうか。
ディオがまた目を覚ました時にはジョナサンはいなかった。彼がいたことを示すように、自分が読んで、彼も読んでいた本が枕元に置かれていた。
起き上がり、自分の体を確かめたが、服装が乱れていることも、変わっていることもなかった。違和感もない。
何もなかったのか。食欲を満たすように性欲も満たしてしまえばいいのに。血を吸った後に彼はあの目でこちらを見てくる。
あの理性を無くしたときのような目で。呼吸が荒くさせ、体をなでる手に彼の股間が膨らんでいることも知っている。
本人は気づいていないと思っているようだが。やらせてくれと言えば、自分は抵抗できないのに。それを理解しているからこそ、言ってこないのかもしれない。
しかし、まるで自分に魅力がないと言われているようで、面白くない。この体で数えきれないほどの男を惑わしてきたのだ。彼もそんな男たちと同じように自分を抱きたいと思っているはずだ。
我慢強い男だと思うと同時に腹立たしく思えてきた。
「おはよう、ディオ」
いつの間にか、こちらを見下ろしているジョナサンがいた。向けてくる笑顔は嫌味か。その後ろに隠している汚いものをぶちまけてしまえばいいのに。
彼の首に腕を回し、こちらに引き寄せれば、突然のことに動揺したのか、バランスを崩し、こちらに倒れてきた。
「うわっ」
彼が覆い被さってきた。重なる体は重く、圧迫されているが、今は我慢する。
「ごめっ……」
彼はすぐに手と膝をつき、離れていく。真っ赤な顔して自分を見下ろしたまま、動かない。唾を飲み込んだのが分かった。視線を下半身に向ければ、股間が膨らんでいるのが見えた。やはり、反応している。
誘惑に負けてしまえばいいと頬に手を伸ばす。
「触れないで」
冷たく言い放たれ、手が止まる。言霊が体を支配する。自分の上から退いた彼は逃げるように部屋を出ていった。動けるようになり、ベッドの上に手を放る。
「そんな顔をするんじゃあない」
今にも泣き出しそうな顔で命令するなんて、卑怯だ。
ディオから少しでも離れようとジョナサンは屋敷の中を歩く。彼女にばれてしまっている。自分の気持ちが。気づかない訳がないのだ。そばにいて、あんなに彼女を見ているのだから。
吸血には双方にメリットがあるが、その後の性欲は自分の独りよがりでしかない。
しかし、あんなことをしてくるということは彼女にもその気があると、とっていいのだろうか。都合のいい方にとってどうすると歩みをとめ、近くにあった壁に頭をぶつける。
また彼女はからかっているだけだ。反応を見て楽しんでいるだけ。彼女も好きでもない者としたいとは――。
「嫌い、なのかな……」
ディオは自分のことをどう思っているのだろうか。首を絞めたり、理性を失い傷つけてきた者に好意など持つだろうか。ただの自分を生き長らえさせてくれる存在だと、道具のように思っているのだろうか。
どう思われようが、自分はディオのことは好きだ。彼女と一緒にいて、美しい彼女にひかれていき、あの帰ろうとした日には本当はひき止めてくれないだろうかと期待していた。予想外の行動で、それは行われたが。
しかも、吸血鬼の今の自分を必要としてくれるのは彼女しかいないだろう。独りにはなりたくない。勘違いでもなんでも、この愛しいという感情は人間だったことを思い出させてくれる。
「ぼくは、ぼくだ」
それは紛れもない事実。言った言葉が呪文みたいだと一人、笑った。
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