兄と妹 2

起きると、朝だった。少し眠るつもりだったが、ぐっすりと寝てしまったらしい。
起き上がり、着替えをし、顔を洗い、台所に向かえば。
机に置かれている朝食。今日は、野菜をふんだんに使ったサンドイッチらしい。一緒に小さな林檎のパイが置いてあった。今日はデザート付きらしい。
「ありがとうございます、いただきます」
見えない小さな小人に感謝をしつつ、朝食を食べ始めた。

朝食を食べ終え、人形の仕上げに取りかかる。
長い髪に櫛をかけ、人形の服のほつれを直し、綺麗にしていく。
昼前には、その作業は終わってしまった。
窓を開けて、風を通す。
良い天気だ。日差しが暖かい。
「あなたたちも、少し日光を浴びましょうか」
窓越しに人形を腰掛けさせる。
日差しを浴びて、髪と肌が輝く。風が髪をなびかせた。
何気に窓から、外の風景を見ていた。いつもと変わらない風景。田舎の草木ばかりの。
「……!」
何かがこちらに向かって、走ってきていた。黒い何かが。
視線をそらしたかったが、そらせなかった。体も動かない。
それは、段々と近づき、四つん這いで走ってきていた。
黒い塊の中に赤が見えた。それが目なのだと気づき、まっすぐにこちらを見ている。
壁一つ隔て、自分より大きいだろう黒い獣が目の前にはいた。
直視しているはずなのに、輪郭がぼやけている。赤い目だけがはっきりと見えていた。獣は、鳴き声すらあげず、静かで。口を大きく開き、人形を奪い、かけていく。
遠くなる黒い獣の姿。
何が起きたのか、分からず、ただ固まっていたが、窓辺に一つ残された、青い人形を抱える。
「取り返さなきゃ……!」
お客様から預かった大切な物だ。なくしたなど、言えない。彼には嫌われたくない。
家を出て、獣がかけて行った方へ走っていく。なぜ、人形を持ってきたのか不思議だったが、この人形は対だ。もう一つの人形の所へ連れていってくれる気がした。
獣が走ったのに、足跡はない。しかし、その気配は残されていた。黒い気配。少し生ぬるい感じが、遠くから漂ってきていた。追いかけてこいと言わんばかりに。
雑木林に入る。道という道はなく、木々が光を遮り、薄暗い。かけていた足も慎重になり、ゆっくりと、着実に歩むようになる。
ここに入った時から、胸の内がざわついていた。獣に遭遇してしまったらという不安からだろうか、人形が見つからなかったらという不安からだろうか。
酷く気分が悪くなってきたが、歩みは止めない。ただ、人形を探して、歩く。
開けた場所に出た。そこにあの黒い獣はいた。自分を待っていたように。
また、体が固まる。叫び声を出したかったが、口も開かず、声も出なかった。
それはゆっくりと、近づいてくる。
得体の知れないものへの恐怖。来るなと、どれだけ、内心叫べど、それは聞き入れてもらえない。
食べられる。この獣に食べられるのだ。自分が抱えているこの黒い獣のようなどす黒い感情と共に。
少し開けた口からは、うめき声。
目の前に獣が差し迫った時に、眩むほどの光。次の瞬間、視界は暗転した。

誰かに呼びかけられている気がする。
体を誰かが叩いている。
うっすらと目をあければ、目に入ってきたのは、草、木、石や土。草や土の匂いが濃い。
ゆっくりと起き上がる。手に当たったものを見ると、それはオルタンシアだった。
誰かここにいたはずだ。自分を起こしてくれた人物が。オルタンシアを抱き、辺りを見回したがそんな人物はどこにもいない。
確かに名前を呼ばれたのだ。少女の声で。
しかし、視界に入ったあるもので、その考えは吹っ飛んでいった。
ボロボロになったヴィオレットが、転がっていた。
服は破られ、片足と片腕になって、胴体から離れた、腕と足がそばには落ちていた。磨いたはずの肌は、汚れ、綺麗にといた髪もくすみ、酷く絡まっていた。
体をひきずり、人形の近くまでいく。バラバラになった人形を拾い上げ、立ち上がる。
ただ、頭には、人形が壊れてしまったことと、それにイヴェールが悲しむのではないか、怒るのではないかと。引き渡しの日は今日なのに。
人形を返してほしいと言われ、もうここには来ないと去っていく情景が、たやすく想像できた。
それと、ヴィオレットを奪い、バラバラにした黒い獣。どこかに行ってしまったのか、姿はない。
頭で思い描くが、その姿が、朧になっていた。今さっき見ていたはずなのだが。ただ赤い目だけは、はっきりと覚えている。
粗い呼吸をしていたはずだ。唸っていたはずなのだが、それは聞こえず。そこにいるはずなのに、いないように。
あれは、自分なのだろうか。あれは、まるで、抱えている劣情を具現化したような存在。
イヴェールと一緒にいるために、人形が壊れればいいと、何回も思った。そうすれば、彼は自分のところに来てくれる。それを、自分以外の誰かしてくれればいいのにと。
獣は、自分の願いを叶えてくれたのだろうか。
分からないが、現にヴィオレットは、壊されている。
「ノエル!」
名前を呼ばれ、顔を上げた。足が止まる。
イヴェールがそこにいた。彼の背に見える空は赤く、もうそんなに時間が経っていたのだと、ぼんやりした頭で考えていた。
いつの間にか、自分の家の近くまで帰ってきたらしい。
「どうしたんだい?ボロボロで……」
近寄ってきたイヴェールは、無表情だが、うろたえているのが分かった。
「あ……あ……」
彼を見上げ、あの非現実なできごとから、現実に戻ってきたのだと安心し、人形を自分の不注意で、壊してしまったことをどう伝えればいいのかと、二つの感情が入り交じり、声をあげて泣いてしまった。
泣きながらも、謝罪の言葉を繰り返した。嫌われたくない一心で。
「うん、うん、家に入ろう」
イヴェールが肩を抱き、自分を支え、家まで導いてくれた。触れる体温に安心し、また、涙が溢れた。

体も綺麗にし、着替えもし、イヴェールのいる部屋に戻れば、彼がティーカップにお茶を注いでいた。
「勝手に台所を使わせてもらったよ。さあ、どうぞ。お嬢さん」
イヴェールが椅子をひく。座らないといけないのだと、慌ててそこに座った。
ティーカップを自分の前に。いい香りが鼻孔をくすぐる。
「これで、あたたまって」
「ありがとうございます……」
イヴェールは気にしなくていいと、自分の正面に座る。
お茶を飲もうとしたが、その手が止まる。テーブルには、バラバラになった人形が横たわっていた。
「この人形は……」
「ごめんなさい!必ず、直しますから!お代は結構です!あの、だから……だから……」
嫌いにならないでという言葉は、口の中で消えた。悲しさと不安に抱かれたが、涙は出なかった。もう散々、泣いていたのだ。
「うん。それを頼もうと思っていたんだ。それより、君に怪我がなくて良かった」
イヴェールはティーポットからティーカップへと、お茶を注ぐ。
「人形は壊れても、直せるけど、君が壊れたら、なおせないからね」
もしかしたら、人形が壊れたのは、自分のせいかもしれないのに。なんて、この人は優しいのだろう。自分を責めず、お茶までいれてくれて。
「ゆっくり、直してくれればいいよ」
「はい……ありがとうございます……」
お茶を飲むが、ひっかかることがあった。
自分は、彼に何があったかを言っただろうか。
君に怪我がなくてよかった。
君が壊れたら、なおせないから。
そう彼は言った。人形は一目見れば、壊れているのが分かるが、自分はただボロボロで。あの姿なら、怪我ぐらいは心配するかもしれないが。
カップを受け皿に戻す。
「あの」
「話さなくていいよ」
自分の言葉が、彼の言葉に遮られる。
こちらを見る目は、なぜか全てを見透かしているようで。赤と青の目は、とても澄み渡っていた。
開いた口は閉じた。
「この紅茶、おいしいね。知り合いに貰ったんだ」
その言葉に、笑って返事をした。

その日は、イヴェールが帰った後は、少しだけ作業をして、眠った。
体があまりにも疲労していたからだ。

次の日は、朝早く起きた。
なぜか、朝食はなかった。今日は小人さんはお休みらしい。
自分で作った朝食を食べ終え、作業に取りかかる。ヴィオレットの修復は、なかなかうまくいかない。パーツは少し欠けているところもあり、一筋縄でいかない。
しかし、こんな時こそ、腕の見せどころだ。
時間も忘れるほど、作業に没頭していた。

いつの間にか眠っており、慌てて、目を覚ますと、夕方。
イヴェールが来る時間だと、立ち上がる。
甘い匂いがすることに気づいた。

「こんにちは、ノエル」
「こんにちは、イヴェールさん」
いつもどおりに、イヴェールを出迎える。
今日は、紅茶といちごのパイ。
「このパイ、小人さんが作ってくれたみたいで」
甘い匂いに誘われるよう、台所に向かうと、机の上にいちごのパイが置かれていた。朝食を作れなかったから、代わりなのだろうか。
「小人さんなんて、いないと笑っていたのにね」
しかし、毛布をかけてくれて、朝食を作ってくれていた誰かがいるのだ。
説明がつかない状況は、イヴェールの言葉がしっくりくるのだ。
信じるしかない。
「おいしいね」
パイを食べたイヴェールの言葉に同意する。
「はい、本当に」
この時間のように甘いパイだった。

イヴェールが帰った後に、洗濯物をまとめていると、洗濯物をいれる籠に下敷きになっているものを見つけた。
それを拾い上げれば、それは、ハンカチだった。
「あ!」
イヴェールのハンカチだ。初日に泣き出した自分に貸してくれたもの。
洗って返すと言ったのに。
なぜ、忘れていたのだろう。
洗濯物の一番、上に置いた。
朝一番に洗濯すれば、イヴェールが来るまでには、乾くだろう。

その日はいつもどおりに、ノエルが迎えてくれたが、テーブルに並ぶ対の人形を見て、今日が最後なのだとイヴェールは分かった。
ノエルはとても穏やかだった。前は、あんなにも荒んでいっていたのに。
彼女の気持ちは手に取るよう、分かった。
ずっと待っている兄と同じ顔の人物がやってくれば、執着するに決まっている。
人形が直るにつれ、離れたくないと、ここに来てほしいという思いは強くなり、それが原因でヴィオレットを壊してしまった。
動けないヴィオレットの代わりに、オルタンシアに話を聞いた。
膨れ上がった狂気は彼女の体に収まらず、黒い獣として現れてしまった。
それは、彼女の願いを叶え、元いた場所に戻ってしまったと。
まだ、彼女は狂気をはらんでいる。それに彼女は、気づくことはない。

差し出された人形とハンカチ。
始めて会った時に、彼女に渡したものだった。すっかり忘れていた。
受け取ると、ノエルは頭を下げ、人形とハンカチを返すことが遅くなったことについて、謝罪を述べる。
別にいいと首を横に振った。
人形が壊れた原因は、こちらにもある。何も対処しかなかった自分も悪いのだ。
壊れたヴィオレットには、何かしなければ。
「ありがとうございました」
軽く頭を下げ、出ていこうとすると、コートが引っ張られた。
「あの……」
「なんだい?」
ノエルの目は泳ぎ、顔は少し赤い。
「すみません、こんなことをお願いするのは、失礼かもしれませんが、最後に……」
それは、消え入りそうな声。
「抱き、しめて……くれませんか?」
そう言うと、コートを離し、項垂れてしまった。
抱える人形を横にあるテーブルに置き、ノエルを力強く抱きしめた。触れた瞬間、彼女が驚いたのが分かった。
力は緩めなかった。もう帰ってこない兄の分まで、強く強く抱きしめる。
これは、彼女の物語。兄は妹のために出稼ぎに行き、妹はずっと帰らない兄を待つ。
兄を呼ぶ声と咽び泣く声がまじる。そんな彼女を慰めようと、少女の姿をした双子が歌っていた。
それは、兄が妹のためによく歌った子守唄。

懐かしい歌が聞こえる。久しぶりに感じる兄の体温。
兄は戻ってきたのだ。
出ていく時に、必ず戻ってくると約束し、抱きしめられた時と何も変わらない。
「ありがとう、ノエル」
「ありがとうございます、ノエル様」
兄と少女たちの声。
子守唄に誘われるよう、眠りへと落ちた。

目をあければ、机に突っ伏しながら、寝ていた。
とても、幸せな夢を見ていた気がする。どんな夢か思い出せないけれど、とても、あたたかな夢だった。
目をこすりながら、上体を起こす。
目の前にハンカチがあった。
自分はこんなハンカチを持っていただろうかと、手に取る。それを握ると、少しあたたかく、先ほどまで、見ていた夢を思い出せそうな気がした。
扉が叩かれる音がし、慌てて出ると、いたのは、手紙を届けてくれるいつもの人で兄からの手紙だった。
兄の字で、したためられた、どこから届くか分からない手紙。
お礼を言い、受け取る。
「兄様ったら……いつお戻りになるのかしら……」
遠くにいる兄へと思いをはせる。

朝と夜の狭間から、イヴェールは彼女を見つめていた。
その風景をかき消し、戻っていく。
漂う雰囲気が、冷たくなる。
「オルタンシア、ヴィオレット、先に戻って」
二人は頷くと、自分の隣から消えた。

包まれる暗闇。 長い髪をなびかせ、赤い唇を三日月型にさせた女性が現れる。
「君は、いつも妹から兄を奪うね」
妖しい笑みは変わらない。
「ミシェル」
名前を呼ぶと、笑い出した。
「だって、イヴェールは私の王子様だもの。あなたはいつも、私を狭い檻から解放してくれる」
白い手が伸び、頬へと添えられる。その手つきがとても優しく。
「あの土の中から、窮屈な箱から」
彼女の触れる手は、酷く冷たい。
「イヴェール、あなたは私のものよ」
手が離れ、頬に唇が触れた。
高い笑い声と共に、彼女は暗闇にとけていく。
「楽しみにしているわ、イヴェール。いつ檻から出してくれるのか」
その言葉も闇に、とけていった。
彼女は檻から解放されることを願っている。
しかし、彼女は生という檻を抜け出しても、墓という檻から抜け出しても、硝子の箱という檻から抜け出しても、どれだけ地平線を飛び越えても、この世界という檻からは抜け出せない。
檻に囚われているのが、彼女の物語だ。
それに気づかず、ずっと彼女は抜け出そうと、足掻き続ける。
「君もノエルと同じだよ」
その言葉はミシェルに届きはしない。


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後書き
イヴェールさんがノエルに会いに行く話
会いに行ってもいいじゃないかと妄想しました
漫画を見てからなのですが、兄と妹の物語は、ループしてるのではないかと
ミシェルを手に入れる
そして、兄は死ぬ
それを知らない妹は、帰らぬ兄を待ち続ける
それは、時代を越えてもずっと、続いているのです


2012/10/04


BacK