兄と妹
「イヴェール様!」
慌ててヴィオレットがオルタンシアと共に部屋に入ってきた。
暇を持て余していたイヴェールは、夢の中に入ろうとしていたが、現実に引き戻される。
「どうしたんだい?」
「オルタンシアの腕が取れましたの!」
ヴィオレットはオルタンシアを前に立たせる。
オルタンシアの右手が服の袖からない。その腕は彼女自身が、持っていた。肘から下が取れたらしい。
「どうしましょう?」
慌てふためいているヴィオレットとは逆に、まるで他人事のようにオルタンシアは冷静だ。人形は痛みがない。腕が取れ、片手が使えないということだけだ。
「腕を見せて」
差し出された腕を見る。関節の所から取れていた。屈み、取れた場所に触れる。損傷はしていない。
「直してもらおうか」
自分でも直せるが、下手に触って悪化させてしまえば、大問題だ。
「それは……」
二人が不安げに見てくる。
「君たちを作った人に」
兄の愛しい妹に。
日が傾き、部屋は薄暗くなっていた。
それに気づいたノエルは、作業の手を止めた。
もう客も来ないだろうと、表に出て看板を裏返す。そろそろ新しい物に変えなければ。
「もう終わりかい?」
「ああ、お客……」
振り返れば、人形を抱えた兄。
遠い所にいるはずの、帰って来ない兄。
それが、目の前にいる。
「兄様!」
溢れる涙を堪えきれず、兄に抱きついた。
「心配したの!手紙しか届かないし……ああ、お帰りなさい……!」
見上げる顔に違和感を覚える。
見つめる目は片目が赤い。頬に刺青。兄は刺青もなかったし、両目は碧だったはず。
しかも、表情はピクリとも動かない。
「にい、さま?」
「君とは初めましてだよ、お嬢さん」
他人行儀の言葉に、慌てて離れた。
「え、でも……」
目と刺青を除けば、兄なのだ。声すら同じ。他人の空似にしては、あまりにも。
「僕はイヴェールだけど、君の兄じゃない」
片腕で二つの人形を抱え、懐からハンカチを取り出し、差し出してきた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
思わず受け取ってしまったハンカチ。涙はもう止まっていた。使ってしまっていいのだろうかと、兄らしき人を見たが、ただ無表情で見ているだけ。
「遠慮せずに使って」
そう言われ、まだ濡れている頬を拭う。
この人は兄ではないと自分に言い聞かせ、他人の空似だと無理矢理、納得させる。
「これ、洗って返します」
「そう。実は、君にこの子を直してほしいんだ」
抱えている二つの人形。頬には片方ずつ刺青。男性が持っているには、あまりふさわしくない可愛らしい人形だ。
「お客様!ご、ごめんなさい!あ、中にどうぞ!」
慌てて、扉を開き、招き入れると、ありがとうとお礼を言われる。
その声に兄を思い出し、目頭が熱くなった。
「すみません、あなたが私の兄にそっくりだったもので」
「気にしてないよ」
お茶を出し、目の前に座る客は、一口飲む。
「私はノエル。あなたは……」
「イヴェール。君の兄ではないけどね」
繰り返された言葉に胸がえぐられる。名前も同じだとは、逆におかしくなり、吹き出してしまった。
「おかしいかな?」
「いいえ、ごめんなさい!」
笑うのを堪え、イヴェールの目の前に座る。
「ええと、この子たちですか」
「ああ、こっちは腕が取れているんだ。こっちは、見た目は何もないけど、古いから……」
よく見れば、人形は綺麗にされているが、年季が入っているものだ。
テーブルには、取れた腕が置かれる。本当に取れただけらしい。
「これくらいなら……でもお返しするのは、遅くなりますけど」
「うん、大丈夫だよ。修理代はこれでいいかな」
麻布が音をたてて、テーブルの上に。その音から、結構な量の金額が入っていることが分かった。
紐が緩くなっていたのか、中身が見えたが、金貨だった。
「こんなにも……!あの、お返しします!」
立ち上がり、袋を取ろうとしたが、逆に握るように手を添えられた。
「返されても困るから、貰って」
仕事量にみあわない。しかし、最近、仕事が減り、生活が苦しいのは確かだ。
「ありがとうございます……」
ありがたく受け取ることにする。
持つと、やはり重い。少し罪悪感を感じてしまう。
「それと、毎日、様子を見に来てもいいかな」
「え……はい」
それくらいならと、了承する。余程、大事なものなのだろう。
自分も、断る理由がない。
「時間は……訪ねたくらいに来るよ。じゃあね、ヴィオレット、オルタンシア」
イヴェールは人形を一撫でして、立ち上がる。
「また」
「ええ、またいらしてください」
出ていく後ろ姿に、手を伸ばしたい衝動を抑える。
扉が閉められ、静かになった。
兄が出稼ぎに行くと言った時、なぜ、止めなかったのか後悔が募る。
落ち込んでばかりはいられない。
久しぶりの仕事に、取りかかることにする。
「あなたが紫陽花、オルタンシアね。あなたは菫、ヴィオレットね」
その名前にふさわしく、青の服に紫の服を着ている。
人形に名前がつけられていることは、珍しいことではない。名前をつければ、愛着がつくものだ。
「頑張らないと」
道具を準備していく。
貰った金額にみあう仕事をしなければ。
鳥の鳴き声が聞こえ、朝なのだと気づく。
目を覚まし、起き上がれば、目の前には作業したままの状態の机。窓からは、柔らかい光が差し込んでいた。
作業途中に寝てしまったようだ。
伸びをすれば、何かが落ちる音がした。
振り返り、下を見れば毛布が落ちていた。
毛布を取るが、違和感を覚える。
自分は、毛布をかぶって寝た覚えはない。途中で起き、毛布を持ってきたという記憶はない。
「誰かが……?」
この家には自分しかいないはずなのに。
あの人、イヴェールが来てくれたのだろうか。しかし、指定された時間には早すぎる。
それとも、兄が。
キッチンに行けば、朝食がテーブルに置かれていた。
二枚のパンケーキにスープ。湯気が出ており、美味しそうな匂い。
お腹が鳴り、顔を赤くする。
他の部屋を回ったが、誰もいない。
少し怪しいが、食べ物を粗末にしてはいけないだろう。
朝食を食べながら、作ってくれた誰かに感謝した。
陽が傾く頃にイヴェールは、やってきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
そう言うには、少し遅い気がする。
お茶を出し、イヴェールの目の前に座る。
そういえば、彼は妙な格好をしている。まだ、穏やかな気候なのに、コート。暑くはないのだろうか。顔を見ても、お茶を飲む彼は無表情だ。
「……あの、朝、この家に来ましたか?」
今朝の不思議なできごとを思い出し、聞いてみる。
「いいや」
首は横へと振られた。
「何かあったのかい?」
そう聞かれ、今朝のことを話した。毛布が自分にかけられていたこと、朝食が用意されていたことを。
それを彼は、馬鹿にするでもなく真剣に聞いてくれた。
「この家には、私しかいないのです」
「親切な人がいるんだよ。何も盗られていないんだろう?」
「……はい」
盗ろうと思っても、ここにはめぼしい物はない。唯一、狙われそうな金貨も確かめてみたが、減ってはいなかった。自分に危害は加えられていない。
「見えない小人さんがしてくれているんだよ」
彼の口からでてきた以外な言葉に笑ってしまった。そんな話、信じているのは小さな子供ぐらいだろう。
「イヴェールさんは面白い人ですね」
「そうかな」
彼は不思議そうに首を傾げる。大きな彼が、小さな子供に見えた。
イヴェールに人形の修復状況を伝え、それが終わると、彼は帰っていった。
一人でいると、虚しかった。
それを埋めるかのように、人形修復にのめり込んだ。
やはり、朝、起きると、朝食が用意されていた。
食材はきっちりと減っている。
ベッドに戻っていなければ、毛布がかかっており。
部屋を見回るが、誰もいない。
あのイヴェールが訪ねてきてからだ。見えない小人が本当に、いるかのよう。
作業場に置いてある、人形を見る。
「もしかして、あなたたち?」
人形を見るが、何もない。触ってもただの人形でしかない。
「まさかね」
人形が動くことはない。そんなものは、空想の世界だけだ。
オルタンシアの腕を取り付ける。
よく確かめ、問題をないことを確認する。
ため息が出た。
この人形の修理が終わり、返すと、イヴェールはもうここには来ないのだ。
彼は、ただの客。兄とは別人。
しかし、彼と接していると、とても安心する。兄と似ている顔は、常に無表情だが、不思議と冷たい印象は受けない。
耳に届く声は、兄と同じで。名前を呼ばれると、内心、とても喜んだ。ノエルと名前を呼ばれるたびに。
「あなたたちが、羨ましいわ」
この人形は、彼と一緒にいる。大切にされている。彼の腕に抱かれ、やってきた。
触ると、彼の体温を伝わってくるようで、かすかな温もりが手に伝わる。
オルタンシアに服を着せ、双子の人形を見る。
作業をする気が削げ、今日はそこで終わらせることにした。
明日、二つとも綺麗にして、最後。
彼と別れを告げなければ。
イヴェールは、訪ねてきた時間に来た。
いつも通りに、お茶を出す。お礼を言われ、笑顔を返す。無表情の彼は、お茶を飲む。いつも通り。
彼の前に座る。お茶を飲む、彼。服装はいつも同じ。髪型も。少し、浮世離れしているが、確かに彼はそこにいる。
「……今日は静かだね」
そう言われ、気づく。いつもなら、自分から他愛のない話をして、彼が相槌をうってくれる。
「あ……」
話なら、ある。あの不思議なことも、続いている。そして、人形のことも。
喉から、それが出てこない。つっかえていた。声の出し方を忘れたように。
「ノエル、お兄さんからは、手紙はきたのかい?」
いきなりの彼からの問い。
「え……あ、はい」
今日、届いた兄からの手紙。内容は、元気だと、仕事も順調だという報告。自分を心配する言葉と、まだ帰れないということ。そして、入っている少量のお金。唯一の兄との繋がり。
手紙の内容をゆっくりと話す。
あまり代わり映えのしない内容。
「お兄さんは、頑張ってるんだね」
「はい……私のために」
自分のために兄は、出稼ぎに行っている。本当は、早く帰ってきて、ここで一緒に暮らしてほしいけれど。
わがままを言ってはいけない。小さな子供ではないのだ。
彼はティーカップを置く。それは空になっていた。
「ノエル、にん」
「イヴェールさん、お茶のおかわりはいりますか?」
彼の言葉を遮る。笑顔で。
「……いらない」
彼は、お茶を飲み、少しの付き合わせを食べるだけ。そこから、おかわりを求めることもなく、すすめても断っていた。
そう、断ることを知っていたが、すすめなければ、彼はいつもの言葉を言うから。
それが帰ってしまうことを、示していたから。
「人形の修復はどこまで進んだんだい?」
内側から、何かが溢れ出すのを感じた。
人形の修復は、もう終わった。
後は、身形を綺麗にするだけ。本当はしなくてもいい作業。
実は、その修復作業は、もっと早く終わってもいいものだった。
そんなことは、自分と人形しか知らない。
「あ、あの……」
声が震えていた。なぜだろう。
イヴェールは言葉を待っている。ただ、青と赤の目がこちらを見つめている。
「明日、には……終わります……」
歯切れが悪く、言葉を吐き出す。
それは、彼との別れ。
目を合わせないよう、項垂れた。
膝の上にある拳を強く握りしめ、目を強く閉じた。自分の内側の劣情が、水と共に零れ落ちそうだった。
「そう……じゃあ、明日が最後だね」
その声色が少し悲しそうだった。自分と同じ思いなのだろうかと、少し喜ぶ。
表情を確かめたかったが、彼の動く気配に、なぜか動けなかった。
気配と足音で彼が近づいてきたのが分かった。
彼は無言で、頭を撫でると、遠ざかって行くのが分かった。
扉が開き、閉まる音が聞こえる。
「い、イヴェール……さん……にい……さま……」
呼んでも無意味だと分かっていた。彼は兄と違うと分かっているのに。
「イヴェール……兄様」
堰を切ったように、涙が流れていく。
兄とよく似た客は、訪ねてくるのは明日が最後。あの人形を持って、彼はあの扉から出ていくのだろう。長い間、帰ってこない兄のように。目的を終えた彼は、もうここにはやって来ない。そう、彼は二度と。
手で顔を覆う。指の隙間から涙が落ちていく。
声をあげて泣いた。
誰もいないこの場所。
慰めてくれる人はいない。
涙も乾き、作業場に戻る。
机に座る二対の人形。
「羨ましいわ」
あの人に大切にされ、一緒にいる人形。あの腕に抱かれて。
人形相手に何を思っているのだと、自分を笑った。
腕を直した人形を持ち上げる。
「ご主人様のところに帰れるのよ」
人形の表情が柔らかいものに変わった気がした。動くはずもないのに。
「イヴェール……さんのところに……」
人形を掴む手に力がこもる。
「……壊れれば」
溢れた言葉に口を閉じた。
自分は何を言おうとしたのか。何をしようとしたのか。
人形を置いた。
今日は、何をするか分からない。
寝室へと向かう。
寝たら、変な考えも消えるだろう。
少し眠ろうと、冷たい寝具に横になった。
歌声が聞こえる。
小さいその声は、少女の声をしていた。
懐かしさを感じるその歌に、耳をすませていたが、その声がもう一つあることに気づいた。
楽しそうに二人は、歌っている。
歌が聞こえなくなり、笑い声が聞こえた。
幸せそうな声に、微笑みながら、意識を放す。