差し伸ばされた手 2
ディオからシーザーに声をかけてくることはなかったが、シーザーがディオを見つければ、声をかけた。
今日もディオは無理矢理、飯をおごってやると酒場まで連れてこられた。
運ばれてきたパンとスープ。充分な食事だ。
「おまえ、細っちいなぁ。ちゃんと食ってんのか?」
シーザーは自分の体を見てくる。
自分の体のことを知られたが、本当に彼は誰にも言ってないようだ。少し軟化した態度に女だからという意識は持っているのだろうが、全面に出してくることはないし、そういう話もしない。
彼と親しくし始めてから、喧嘩もふっかけられなくなり、今は安泰だ。
「今、食べているじゃあないか」
パンをちぎりながら、睨みつけた。
「なんなら、おれの分けてやろうか」
彼は自分の分のパンを差し出してきた。
「いらん。これだけで十分だ」
ちぎったパンを口に入れる。パサパサしていて固い。
「遠慮すんなって」
「してない」
日頃から満腹になることはない。満腹に慣れてしまったら、体はそれをずっと求めてしまうだろう。身分相応ではない贅沢は自分を苦しませるだけだ。
「あっ!」
声をあげたシーザーはスープをかき込み、酒を飲み干すと立ち上がる。
「時間やべえ! それ、食べていいからな! 無駄にすんなよ」
皿にのっているパンを指して、彼は慌ただしく、酒場を出ていってしまった。
スープも食べ終わり、パンもなくなり、残りはシーザーが残したパンだけ。
それは、父にでもあげようと持って帰ることにした。どうせ、食べないだろうが。その時は自分が食べればいい。
久しぶりの喧嘩で収入があったシーザーはディオにおごってやろうと彼女を探していた。
ある店から出てきた彼女を見つけたが、こちらに気づいた彼女は自分から逃げ出した。
「おい、待てよ!」
彼女と親しくしてから初めての反応。その背中を追いかける。歳上の自分が彼女に追いつくことは容易く、目の前まで行き、立ち止まらせた。
酒瓶を抱えた彼女は俯いていた。
「どうした?」
近づくと彼女はその分、さがっていく。
「ディオ!」
なにかあったのだと一気に間合いを詰め、顎に指をそえ、顔を上げさせた。
「!」
彼女の頬が腫れており、口の端が血で滲んでいた。
「喧嘩か? ならおれが」
彼女は自分の手から離れ、首を横に振る。
「違う。なんでもないんだ。退いてくれ、帰る」
自分の脇を通り過ぎようとするが、腕を出し止める。
「おい、なにが」
「なんでもないと言っている! 退けッ!」
彼女は自分に体当たりして、脇を抜けていった。止めようと思えば止められたが、今にも泣き出しそうな顔を見て、動けなかった。
何かあったかは、探りを入れれば、すぐに判明するだろう。違うとは言っていたが、喧嘩なら彼女を殴ったやつをつきとめ、動かなくなるまで殴るだけだ。
彼女を殴った犯人は、すぐに分かった。酒場で飲んでいる一団に、ディオのことを聞けば、一発だった。
「ああ、たぶんダリオだろ」
その名前を言った男に掴みかかる。周りからはやめろと言われたが、無視をする。
「誰だ!? そいつは……」
「な、なに言ってんだ……あいつの父親だろ……今、あれに手をあげるやつなんて他にいねえよ」
目を白黒させながら、言われたその言葉に呆然とし、掴みかかるのをやめた。
「は……? 父親?」
「ああ。昔はフラフラしていたのをよく見たんだが、今は家で酒浸りだってよ。病気らしいが、ガキを殴る元気はあるみてえだな」
ダリオは働かずに、妻に労働を強いていた。その妻が亡くなると今度は子供に労働を強いていると。
彼女がなぜ、金稼ぎをしているのか、病気の父親――いや、働かない父親の代わりに自分が働かないと飢えてしまうから。
子供の労働も虐待も珍しい話ではないが、ディオの反応に納得がいく。唯一の肉親には逆らえないのだろう。
「……ついでにもう一つ教えてくれ。ディオの家ってどこだ?」
場所を教えてもらい、情報料だと金を置いて酒場を出た。
自分の父親は真面目に働いていたが、無理がたたって死んだ。
優しい父は病気になったことをひたすらに隠して、子供たちのために働いていた。そのことに気づけなかった自分を責めていたところに、母親の遠縁が来て、言葉巧みに父が残してくれた貯えを全て奪っていった。
幼い妹や弟は近所の人たちが世話をしてくれたが、大人に不信感しか持たなかった自分は家を飛び出し、生きていくために犯罪も犯した。それが原因で施設に入れられたが、環境は最悪ですぐに逃げ出した。
ローマの貧民街でリーダーになったりもしたが、なぜかここにいてはいけないと思いロンドンまで来ている。
ディオも自分のようになるのだろうか。そう思うと、とても虚しかった。
教えてもらった場所まで来ると、家の扉の前でうずくまっている金髪の子供。
「ディオ」
顔を上げた彼女は、驚いていた。新たに額に切り傷を負い、服も少し濡れている。
「……なぜ、ここにいる」
「教えてもらった」
彼女の腕を掴み、立たせるとそのまま歩き出す。
「お、い……痛いぞ……」
力強く掴んでいなければ、彼女は先ほどみたいに逃げるかもしれない。そんな考えが力を強くさせていた。
「遠慮なく頼れっつっただろう」
彼女はなにも言わずにおとなしくついてきた。それでも、腕の力はゆるめなかった。
シーザーが寝泊まりしている宿に着き、部屋に入ってようやくディオは腕を離された。今も掴まれている感覚がする。腕をさすっていると、彼の顔が近くにあり、固まる。
「浅いな」
指が額に触れ、怪我を見ているのだと分かった。その手は殴られた頬に添えられた。
「まだ腫れてるな」
その手を叩き落としてしまう。
「あ、わりぃな、痛かったか」
別に痛かったわけではない。そうやって触れられることは母が死んでからはなかった。その手のあたたかさに驚いただけだった。そんなことを彼に言えるわけがない。
「濡れタオルでも持ってくるから、ベッドにでも座って待ってろ」
部屋から出ていったシーザーの言う通りにベッドに座る。大人しく待っていると彼はタオルを手に戻ってきた。
「ほら、冷やせ」
それを受け取ると濡れていた。頬にそれをあてると先ほどの彼の手とは違い、冷たい。
「額の傷は……薬、塗るか」
彼は引き出しから、塗り薬を取り出すと額の切り傷に塗る。
「つっ……」
薬がしみて顔をしかめると彼は我慢しろと言うだけだった。
「どうする? 泊まるか?」
薬を引き出しに戻しながら言われた提案に彼が自分の家のことを知ったのだと分かった。この怪我の理由も。
「いや……帰る」
帰れば、父は酔い潰れて寝ていることだろう。起きて自分がいなければ、どこに行っていたとまた殴られてしまう。
「そうか。ほら、貸してやるよ」
彼は着ていた上着を自分の肩にかける。
「明日、返せよ」
いらないと返そうとしたが、服が濡れていると言われ、肌に服が張り付き、透けていることに気づく。
胸は大丈夫だが、肩と腕が濡れていた。グラスを投げつけられた時に中身がかかったのだろう。着て帰ることにした。家に入る前に脱いで隠せば、大丈夫だろう。
「……もういい」
隣に座った彼にタオルを渡す。
彼を見ていたが、視線をそらし、口を開く。
「…………あ、ありがとう……」
お礼を言えば、頭を力強く撫でられた。
「どういたしまして。おまえ、ありがとうって言えるんだなぁ!」
撫でられるのが終わり、彼を見れば、ニコニコと満面の笑み。
「……じゃあな」
立ち上がり、彼の上着に腕を通す。
「ああ、また明日な、ディオ」
彼も立ち上がるとドアを開ける。廊下に出て振り向けば、彼は手を振っていたが、それは無視をした。
ディオが家に帰ると予想通り、父は酔い潰れて寝ており、静かに自分の狭いベッドに薄い毛布にくるまり、横になった。まだあたたかい上着を抱きなから。
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