傷を舐めあって血まみれになって
白と赤。
白い紙にインクを垂らしたように、滲む赤。
遠くで声が聞こえる。
目の前には、横たわる母親。
見開いた目がこちらを見る。
それを見下ろすことしかできない。何も動かせない。どうやって、足を、腕を、動かしていただろう。
「あんたなんか、生まれなければよかった」
そう母の口は言葉を紡いだ。
耳に届く声はいつも自分を呼んでいた声と同じで。
内側でこだまする、その言葉をすぐには理解できなかった。
勢いよく起き上がれば、薄暗い部屋。まだ陽はあがっていないようだ。
「神子?」
近くで聞こえた声に目を見開き、そちらを見る。
いつからいたのか。部屋には一人の男。
「どうしたのだ?」
「……なんでもねーよ」
不機嫌な声を出し、態度に現す。そうしても顔の汗が流れていく。
「……そうか」
あっさりと引いた男は前にあった椅子に腰を下ろし、マントを脱ぐ。
「何の用?」
「……取引を忘れたのか」
今日はその日だっただろうか。夢の光景が邪魔をして思い出せない。
しかし、彼がこうして来ているということはそうなのだろう。彼にとってこの取引はとてもとても、大事なものなのだから。
待っている間に眠ってしまったのだろう。
「……今日はいい、帰れ」
そういう気分ではなく、彼の姿もあまり見たくはなかった。
「どうした? 神子」
椅子が軋む音に近づく気配。
「なんでもねえって、言ってんだろ。協力はし……」
迫ってきていた手に驚いて固まっていると、額にあてられた。
「熱はなさそうだが」
様子がおかしい彼は今まで寝ていたようだが、体調は崩していないようだ。
額に当てていた手が、乱暴に叩き払われ、睨みつけられる。
あまり機嫌を損ねてはいけない。
「すまない、神子」
そう言えば、一層、不機嫌そうな雰囲気と顔。
彼の気に障ったようだが、それはいつものこと。自分のすること全てが彼は気に入らないらしい。
神子。
全て、それに狂わされたと言ってもいい。
そんなものがなければ、自分も母親もセレスも幸せな人生をおくれただろう。それは決してお金では買えないものだ。
この地位で甘い汁を存分にすすっているが、その分、苦汁も嫌という程なめている。
「み」
「呼ぶな」
彼の言葉を遮り、額に手を当て項垂れる。
自分の名前には嫌でも神子という肩書きが付いてくる。それがなければ、価値なんてないに等しいからだ。
「帰っていいって言ってるだろ。いつまでいる気だよ」
そう言う彼の言葉にいつものような刺々しさが少ないように感じる。
いつもと同じ台詞なのだが、どこか今の彼は弱々しい。こちら睨みつけている目も、どことなく揺れている。
いきなり彼の目から、滴が溢れた。ゼロスはそれに気づくと、頬を伝うものを慌てて拭う。
「ゼロス……?」
「み、見んな。目にゴミか入って」
すぐに嘘と分かる。そんな姿が子供のように見えてしまう。
彼に近づき、少しためらったが、ゆっくりと抱きしめた。
昔に自分にこうしてくれた人はもういないが、その時のぬくもりと安らぎは今でも覚えている。
「なにすんだ……! 離せよ!」
腕を外から拘束しているので力の抵抗は受けない。離せと耳元でわめいていたが、それもなくなる。
「ムカつく……」
そう言いつつも、背中に回る手に素直ではない、内心笑う。
ゼロスが動き、布越しに肩を噛まれる。
取引はするらしい。
抱擁をとけば、ベッドに押し倒され、手を重ね、唇を重ねられた。
失ったものを、戻れない場所に置いてきたものを、求めて傷を舐めあうだけ。
血の匂いが鼻をかすめた。