みかんと大きな犬
柑橘の香りがする。
「小太郎」
名を呼ばれ、主の前へと姿を現す。
柑橘の匂いが濃くなる。
氏康の隣には、かごに入ったみかんがあった。
「坊主が俺とお前に、だってよ」
そう言いつつ、煙管をくわえる。
「お前、坊主の呼びかけ無視したろ、ド阿呆」
少し前まで、自分を呼ぶ声がうるさいくらい聞こえていた気もする。
彼女の呼びかけに応える必要もないのだ。契約主は北条の長、氏康のみだ。
「あいつ、うるせーんだぞ」
ついさっきまで、ここにいて、わめいていたのは、知っている。
みかんを一つ掴むと、投げてきた。それを受け止める。
「むいてくれ」
彼に付いている手は飾りか。
「自分でむけば、よかろう」
何もできない子供でもない。
「俺はコレで忙しいんだよ」
まだ火が付いているであろう煙管で、巻物を叩く。開けた形跡すらない。
みかんを握りつぶして返してやろうかと思ったが、みかんに罪もなく、果汁が巻物に付けばやっかいで。
氏康は煙を吹き出し、煙管を処理すると、巻物を手にする。忙しいと主張するように。
わがままに少し付き合うことにし、みかんの皮を向き、その半分を貰うことにする。残った半分を彼の食べやすいところへと、皮と共に置く。
一つ食べると、それはよく熟しているようで、とても甘い。いいものを、甲斐姫は持ってきたようだ。
「食べさせてくれ」
「……うぬは子供ではなかろう」
見ている巻物を置いて、食べればいい。それだけのことすら、面倒だと言うのか。
「お前からしちゃ、俺はいつまで経っても子供だろ。いいから、食べさせてくれ」
何度、言わせるのかと目が言っている。こちらがさも、悪いと言うように。
このような大きな子供が自分の契約主で、北条の当主かと、ため息をついた。
口を開け、早くと急かしてくるので、一度だけとみかんを一切れ取り、口に運ぶ。
氏康が口を閉じれば、みかんごと指を食べられた。
何も反応を返さずにいると、何か反応しろと、指を軽く噛まれる。
「食っても、我は美味くはないぞ」
その指を喰らっても、せいぜい、こびりついた鉄と血の味ぐらいしかしないだろう。
「誰が食うか」
噛むのをやめ、指が舐められる。
「お前は、俺のもんだろ」
指から遠ざかり、氏康は巻物を閉じて、元の場所に置く。
「もういいのか?」
まともに見たのかと思うくらい、それを終えるには早く。
「食べてほしいんだろ?」
そう言った覚えはない。
「仕事をしろ」
ここで滞り、迷惑を被るのは、彼でも自分でもなく、部下たちだ。
「腹が減っては戦はできぬって……」
手を伸ばし、残っているみかんを手に取り、顔を近づけてきた氏康の口に詰め込む。
「腹は満たしたであろう?」
口の中のものを早々と、咀嚼すると、首に噛みつくが、すぐに離れた。
「食べさせろ」
待てもできない大きい犬。躾はもう必要ないと思っていたが、そうではないらしい。
しかし、ここまで大きいと手がつけれない。
唇が重なると、みかんの味が伝わってくる。慣れてしまっていた柑橘の匂いが鼻をくすぐった。
彼の手から逃れ、消えることもたやすいが、したいようにさせることにした。
置いていた蜜柑が転がった。