歌わない人魚姫
微かに聞こえる笑い声。
頭を撫でられ。
誰かがいる。
見えたのは、細い指と白い手。
握る手は、冷たかったが、自分の体温が伝い、あたたかくなっていく。
この手を離したくないと思った。
見ていた夢はとても良いものだったが、起きると暑く、夢の内容がぼやける。
今は、そんな季節でもない。
次に感じたのは、頭痛。そして、喉の痛み。
風邪をひいたのだと自覚すれば、一層、痛みが酷くなる。
昨日、体に違和感があったのはこれが原因だったのか。
ゆっくりと起き上がると、タオルが落ちてきた。ほぼ乾いているそれを掴み、眺める。
「……タオル?」
周りを見渡せば、すぐそばにあった机には、水が入った入れ物と、畳まれたタオル。
誰かが看病してくれていたのだろうか。ジョンは賢い犬だが、そこまではできない。夢で傍に誰かがいたが、もしかしたら現実で起きていたのかもしれない。
まだ家にいるかもしれないと、ベッドから出た。
部屋を出ると、いたのはジョン。近寄ってきたので、撫でた。
テーブルに風邪薬か置かれていた。その下にメモがあるのを見つけ、見てみる。
スープを作りました
鍵は扉のポストに
綺麗な字で書かれていた。裏を見ても、名前は書かれていない。
そのメモの通り、キッチンに鍋があり、スープがあった。ポストに鍵が入っていた。
親切な人が看病をしてくれ、スープをまで作ってくれたらしい。
メモが残されているということは、帰った後だろうが、他の部屋を一応、見て回った。誰もいなかったが。
落胆していると、目覚ましが聞こえてきた。
それを止めに部屋に戻る。
少し動いただけなのに、もう体は疲れていた。
ベッドに横になると、夢の光景がよみがえる。正確には自分の記憶なのだろう。
肌に触れる手が冷たく、気持ちいい。
頬に添えられた手に頬擦りすると、笑う声が聞こえた。
うっすらと目を開けると、白い手が見えた。焦点があっていないのか、後ろの風景がぼやけている。
頭を撫でられ、懐かしい気分に目を閉じた。
背中に衝撃を感じ、起きた。
顔だけ動かし、見ると、ジョンが乗っかっている。
起こしにきたらしい。手を上げると、退いてくれた。
時計を見れば、出勤時間が迫っていた。
しかし、こんな状態で行っても迷惑がかかるだけだ。他人にうつってしまうかもしれない。
起き上がり、上司に電話をかける。休む旨を伝えると、体調管理がなっていないと怒られたが、一日で治すようにと、休みを取り消されることはなかった。
逆に言えば、明日は風邪をひいていても休めないということだ。なにがなんでも、今日一日で治さなければ。
汗まみれの体を拭き、着替えをし、朝ご飯にスープをいただく。
とてもおいしかった。作ってくれた人物に感謝する。誰かが分かれば、直接言うのだが。
ジョンにも餌をあげ、薬を飲み、また横になろうとすると、腕の通信機が鳴った。
ヒーロー達からだった。心配する声に大丈夫と答える。お見舞いに行くと言われたが、それは断った。風邪をうつしても悪い。
お大事にという言葉を最後に通信が切れた。
自分は恵まれているなと思いつつ、目を閉じた。
誰かが傍にいる。
瞼が重く、目を開けれない。
「お大事に……」
頭を軽く触られ、立ち上がる気配。
どうしようもなく寂しく、傍に誰かがいてほしかった。
「待って」
扉へと向かっていた足音が止まる。
「ここにいてほしい」
何も反応がない。ドアが開いた音はしなかったので、この部屋にまだいることは確かだ。
「お願いだ」
懇願すると、小さなため息と共に、戻ってくる足音。
「……寝てください」
椅子が軋む音。いてくれるのだと安心した。
「ああ、最近、忙しかったからね」
ずっと仕事に追われ、睡眠もろくに取れていなかった。
「無理は禁物ですよ。ヒーローも人間ですから」
「……スカイハイは機械仕掛けらしいよ」
誰が流したのか分からない、根拠もない噂。
スーツの見た目もあるのか、あのスーツの中に、人などいないと。人間臭く作られたロボットなのだと。
インタビューでも、何回かそのことを聞かれた。ちゃんと人間だと答えたが、それでは不十分だろう。しかし、顔を見せる訳にもいかない。
「気にしなくていいですよ。あなたがいるから、スカイハイがいるのです」
「しかし、皆が求めているのは、スカイハイだよ」
皆が求めているのは、ヒーローだ。人など求めていない。
空高く舞う、キング・オブ・ヒーロー・スカイハイを。
「あなた自身、皆に慕われているじゃないですか」
「皆、ヒーローのスカイハイを慕っているんだ」
だから、その為に努力をしている。毎日のトレーニングも、仕事も、パトロールでさえも。
「皆さん、あなたの人柄にひかれているのです」
「スカイハイという付加価値がなければ、孤独な人間だよ」
ヒーローとしての繋がりはあるが、プライベートで親しい人間はいないに等しい。毎日をヒーローとして過ごしている。それが当たり前であり、それでいいと思っている。
「あなたはひとりじゃない」
「ああ、今は君がいるからね」
あと、ペットだがジョンも。
「違う。仲間のヒーローたち、ポセイドンラインの人たちも。素顔を知ってもなお、付き合っている方はいるでしょう」
そうだろうか。彼らが自分を呼ぶ時はスカイハイだ。キースではないのだ。
「私と……違って……」
絞り出されたような、苦しそうな呟き。
「君も、ひとりなのかい?」
「私はいつもひとりだ……!」
何か癪にさわったのだろうか、声が荒くなった。立ち上がった気配に焦る。一人になりたくない。
「すまない、気にさわったなら謝るから……」
懸命に手を伸ばし、当たった手を掴む。
「一人にしないでほしい」
「あなたの手は、私の手を掴むべきじゃない」
逃げようとする手を、それ以上の力で抑え込む。
「一人同士、一緒にいよう。そうすれば、寂しくない」
同じ痛みを知っている同士、傷の舐め合いでもいいから。
「あなたとは一緒にいられない」
「なぜだい?」
諦めたのか、もう手は動かない。
「……あなたと私では住む世界が違う」
掴む手が酷く冷たい。
「私がヒーローだからかい?君もスカイハイを……」
少しずつ体温が伝わる。
「それは、違います」
「じゃあ、一緒にいてほしい。いてほしいんだ」
手の温度が同じになる。
この手を離したくない。
「いてくれないのかい?」
返答はなかったが、変わりに手を強く握られた。
安心すると、眠気が襲ってくる。
「――」
何か言われた気がするが、もう聞こえなかった。
チャイムの音が聞こえる。
重い体を起こし、玄関に向かう。
扉越しに誰かと確認すると。
「アタシよ。断られたけど、お見舞い」
ファイヤーエンブレムの声だ。扉を開けると、自分の姿を見て、心配してくる。
「おやすみ中だったかしら、ごめんなさいね」
「いいや。来てくれて、ありがとう。そして、ありがとう」
そんなやり取りをしていると、風邪が悪化すると、ベッドに押し戻された。
うつしても悪いから帰るよう促したが、あまり気にしていない様子だ。
「あら、イケメンヒーローの風邪なら喜んでもらっちゃうわよ」
笑いながら言ってくれた。
好意を踏みにじることもない。
「はい、皆からのお見舞い品」
他のヒーロー達かららしい。冷却シートに栄養ドリンク。ビタミンCが入ったドリンクにオレンジ。
皆の代表として来てくれたのだろう。
「何も食べてないでしょ?」
もう一つ持っているビニール袋。
「いや、食べたよ」
まだ、スープも残っている。
「作ったの?」
「いいや、私を看病してくれた人がいてね。誰か分からないけれど」
ファイヤーエンブレムが眉を潜めた。
「分からない?」
「いたのは分かっているんだけど、目が開かなくて」
「なんで、その人は家に上がり込んでいるのよ」
「あ」
言われて、気づく。
話していたのは、この部屋だ。
昨日は、今みたいに玄関まで行って、扉を開けていない。
昨日のことを思い出そうと、頭を動かす。
「……途中から記憶がない」
「思い出せるところまで、言ってみて」
言う通りに言ってみる。
朝は会社に出勤し、仕事をこなし、事件が発生して、犯人を捕まえ、少しトレーニングした後に家に帰り、ジョンと散歩に。
「で、家……」
言葉が出てこない。
「で?」
「……家に入った記憶がない」
そこから、記憶が真っ白だ。
家の扉は見たのだ。前までは帰ってきている。
「起きたときは?」
「ベッドだったよ」
そう聞いたファイヤーエンブレムは、考え込む。
「家の前に倒れていたスカイハイを、ベッドまで運んで、看病して、ご飯まで作ってくれた親切な人がいた……」
顔を上げると、辺りを見回し始めた。
「何か盗られてない?」
「それはないと思う」
盗みが目的なら、わざわざここまでしないだろう。しかも、会話までしている。
「向こうは私のことを知っているようだったよ」
「じゃあ、他人って訳じゃないのね。何かその人のことは分からないの?」
「えっと、男性で白い手しか……あ、口調は丁寧だったよ。でも、あまり馴染みがない声だった」
ヒーロー達ではないことは確かだ。毎日のように彼らの声は聞いているのだから、分かるはずなのだ。
「後は、これくらいだね」
スタンドに置いていたメモを渡す。
「まるで人魚姫ね」
メモを眺めて、呟かれた言葉に首を傾げた。
「ほら、人魚姫の王子様は助けてくれた人を知らないじゃない」
嵐で船が難破し、海に放り出された王子は人魚姫に助けられる。しかし、人間に見られてはいけない人魚姫は、王子一人を浜辺に残し、海へと帰ってしまう。
「でも、彼は人間だよ」
何もない訳ではない。同じ場所、地上にいるのだ。深い海の奥にいるのではない。
「じゃあ、シンデレラ」
このメモがガラスの靴なのか。
その前に、自分の恩人は、男性だということは、分かっているはずなのに。
「筆跡で分かるかな?」
「関係者に一人、一人書いてもらうの?結構な人数よ」
あまり現実的ではないと言われた。
「まあ、これは冷蔵庫、入れとくわね。元気になって、皆に協力をあおぎましょ」
ひとまず、自分が動けるようにならなければ。
ファイヤーエンブレムは、お大事にと帰っていった。
彼に感謝し見送った後、ジョンにご飯だけあげ、横になることにした。散歩には、いけない。
明日、ヒーローの皆に頼もう。
目を閉じた。
恩人に手を握られた感覚を思い出し、少し寂しく思えた。
出勤すると、上司に呼び出され、怒られるかと思ったが、仕事を伝えられただけだった。
それもそのはずだ。分刻みに分けられ、休憩時間は皆無のハードスケジュールだった。昨日の仕事がずれ込んだせいだが、もう少しくらい、余裕をもたせてもバチは当たらないと思う。
それをこなすと、日付が変わっていた。
遅いパトロールは早めに切り上げ、家に帰り、ベッドに転がる。
病み上がり状態なのに容赦がない。もとは自分の体調管理がなっていないせいなのかもしれないが、仕事が忙しくあまり睡眠時間を取れなかったことも一因だと思うのだが。
今日はトレーニング室で、皆に昨日の謎の人物について、話を聞いてもらおうと思っていたのに。
ポケットの中から、メモ用紙を取り出す。
一番の手がかりだ。
これを書いた人物と、一緒にいると言ったのだ。
あの人に、寂しい思いをさせてしまっているのかもしれない。
自分から言い出したことだ。
それくらい守れなくて、何がヒーローだ。
午前中の仕事を終え、トレーニング室へと向かった。
「おはよう!そして、おはよう!」
挨拶と共に部屋に入ると、皆に囲まれた。
「もう大丈夫?」
「キングも風邪には敵わないんですね」
「心配したんだから」
「無理しないでくださいね」
「元気になってよかったな」
「風邪とは無縁そうなのにな」
皆にお礼を言う。見舞い品は全てがありがたかった。
「はいはい、そこまでにして。スカイハイ」
ファイヤーエンブレムの言葉で思い出す。
「あ!皆に話を聞いてほしいんだ!」
とりあえず、話は休憩室ですることになった。
説明を終え、スカイハイは頭を下げる。
「その人にお礼を言いたいんだ。協力してほしい」
そう言うと、皆が笑顔で快諾した。
「手がかりは?」
「男性で白い肌の人だ。口調は丁寧だったよ。あとはこのメモくらい」
メモを差し出すと、皆が覗き込む。
「なんか、他にはねえの?」
あまりにも、てがかりが少ない。
「私を知っている口ぶりだったよ。スカイハイと呼ばれて」
「あの、スカイハイさんはその時、素顔だったんですよね……?」
折紙サイクロンの言葉に皆が、気づいた。
「そうですよ。普通、倒れている人がいたら、救急車を呼びます」
キング・オブ・ヒーローが病院に運ばれたとなれば、大騒ぎだ。そこまで配慮してくれる人だということ。
「誰なんだろ?ポセイドンラインの人かな?」
それには、スカイハイが首を横に振った。素顔を知っている者は、極わずかで、声を聞いたら判別できるという。昨日も、その人たちに会って、聞いたらしいが、皆、違うと返ってきたと。
「ポセイドンラインじゃないとすれば……」
皆が頭を抱える。ポセイドンラインの人達、ヒーロー以外にスカイハイの素顔を知る人物。
「他に見た人は、いないの?」
「私は一人暮らしだし……」
見ていたとしても、通行人くらいだろう。それこそ、手間がかかる。
「ちょっと、スカイハイ。あんた、ワンちゃんは?」
「ジョンは見ていると、思うけど……」
家に入っているので、ジョンはその人を見ているだろう。しかし、ジョンは人間の言葉は喋れない。コミュニケーションは取れるが、そこまで把握はできない。
メモを眺める。
会いたくて会えない。本当に、人魚姫かシンデレラのようだった。
仲間達も、心当たりがある人物には、聞いてみると、そこで解散となった。
意気消沈としながら、ジョンの散歩へと向かう。
「ジョン……君は知っているんだね」
横に並んで歩く、愛犬に話しかけると、見上げてくる。
こういう時に、話ができたらいいと思った。
しかし、人の言葉を喋れないことを、ジョンに言っても無意味だ。それは、仕方のないことなのだから。
買い物を終え、家に帰ろうとした時。
ちゃんとリードを掴もうとした瞬間、リードが手から抜けていった。
ジョンが一目散に走り出していた。
「待つんだ!そして、待つんだ!ジョン!」
その静止の声は、無視され、その姿を追いかけた。
少し走って、ジョンと一緒にいる人物がいた。
「ワン!ワン!」
足元を行ったり来たりして、足止めをしている。
「……あの」
その人物は、見たことがある。
銀の長髪、黒いリボン、グレーのスーツ。白い肌。
「スカイハイ」
こちらを見て、ヒーローの名前を呼ぶ。この人なら、スカイハイの素顔を知っている。他のヒーローのも。
あまり馴染みがないのは、会う機会があまりないから。
「……ペトロフ管理官」
ユーリ・ペトロフ。ヒーロー管理官であり、裁判官。
「ジョン、この人が?」
返事が返ってくる。
「ペトロフ管理官、あなたが私を看病してくれたんですね?」
他に考えられなかった。スカイハイと呼んだ声が、あの時の声と重なった。
「ああ、よくなったんですね。この子に感謝してください。私を倒れたあなたの元へと、連れていったのはこの子ですから」
彼の隣で座るジョンを撫でながら、お礼を言う。少し得意気なジョン。
「管理官、ありがとうございます、そして、ありがとうございました」
彼にも、お礼を言い、頭を下げた。
「いえ。では、失礼します。スカイハイ」
頭を下げて彼は、歩き出そうとするので、静止の声をかけた。
「お礼を、お礼をさせてほしいです」
「では、もう気にしないでください。当たり前のことをしただけですから」
あまりにも、そっけない態度。そう言って、去っていこうとする。
引き止めるため、彼の手を掴む。
「あなたと一緒にいると、私は言いました!」
一緒にいようと、自分は言ったのだ。熱に浮かされていようと、あの言葉は自分の本心で。
ヒーローのスカイハイではなく、キースと一緒にいてほしい。
彼は驚いたように、目を見開いていた。
あの時に、ぶつけられた感情と言葉。あれが、本心だとすれば。
こんなにも、冷静沈着な彼からは、考えられないけれど。
彼は何も言わなかったけれど、握り返された手を、離すわけにはいかなかった。
また、手が握られている。あの時と同じように。
忘れようとした、あの日のできごと。
今でも鮮明に思い出せる。
買い物をしようと、いつもとは違う道で帰っていた。
その時、目の前に突然、現れたのはゴールデンレトリバー。
足元でうろつかれ、強制的に立ち止まらされた。
「なんだ?」
首輪に繋がるリードが見え、飼い犬なのだと気づき、引きずられたリードを掴むと、いきなり走り出された。
そのまま、連れていかれた場所には驚いた。
「大丈夫ですか!?」
扉の前で人が倒れていた。
心配するように悲しげに鳴いている犬。飼い主を助けたくて、ここまで連れてきたらしい。
「ん……誰かな……」
意識はある。救急車を呼ぼうと携帯を取り出したが。顔がこちらに向き、携帯を操作する手を止めた。
「スカイハイ……!」
顔が赤い。頬に触ると、熱かった。首も触り、熱を出しているのだと確信する。
ヒーローが病院に運ばれたとなると、大事だ。どこかに運び、安静にさせるのが得策か。携帯を直した。
「ベッドが固い……」
ここをベッドと勘違いしている。しかし、このままのもどうかと、扉を背に座らせた。
「しっかりしてください!」
「ああ……」
返答はしているが、寝言みたいなものだろう。
犬がスカイハイのポケットを探り、口に加えた物を差し出してきた。それは鍵。
「家の鍵か?」
「ワン!」
受け取りつつ、そう聞くと、肯定するような返事。言葉を理解しているか定かではないが、スカイハイがこんな状態では、猫の手ならぬ、犬の手でも借りたいところだ。
もしやここは、スカイハイの家ではないのかと、鍵を差し入れてみた。
ゆっくりと回り、鍵が開いた音。
家に着いた時に、安心して力尽きてしまったのだろう。
スカイハイに肩を貸し、立ち上がらせ、家へと入った。
彼をベッドに横にさせた。
ジャケットにジーパンでは、寝苦しいだろうと、ベッドの近くに置いていたジャージに着替えさせた。パンツの方に腕を通そうとしたので、着替えを手伝うはめになった。
水とタオルを用意し、寝ている彼の額に冷やしたタオルを置いた。紅潮している頬に手を添えると、気持ちいいのか頬ずってきた。犬みたいだと笑う。
すると、スカイハイはうっすらと目を開けた。目が一点だけを見つめている。あまり見えていないのだろう。
寝てもいいと、頭を撫でると、満足そうな笑みを浮かべ、目を閉じていく。
確か、スカイハイはとても忙しかったはずだ。ヒーローをマルチタレントだと思っているのではないかと思ってしまうほど。
グラビア撮影、CMにバラエティー、ドラマ、映画。雑誌のインタビューにHERO・TV、ファンイベント。
キング・オブ・ヒーローは様々なところから引っ張りだこだ。
過労が原因でこうなったのならば、ポセイドンラインは仕事のスケジュールを少しは調整すべきだ。
ヒーローとて人間だ。限界がある。
ネクストと言われる人種だが、どこも人間と変わらない。
怪我をする。病気もする。それが原因で死ぬこともある。
それを理解している人間は多いとは言えない。化物扱いしている人間もいる。このシュテインビルドはヒーロー達のおかげか、差別は少ない。
部屋を出ると、犬が心配そうに見上げてきた。
屈み、同じ目線になる。
「ご主人なら大丈夫だ。寝ていたら治る。だから、静かに」
撫でながらそう言うと、小さく嬉しそうな声を出す。やはり、この犬は言葉を分かっているようだ。とても賢いのだろう。
帰ろうかと思ったが、彼が起きても一人だ。あんな状態では、食事は作れないだろうし、まともな食事も食べていないことだろう。
キッチンに行き、冷蔵庫を見ると、何とかスープくらいなら作れそうな材料があった。
食べないなら、捨てればいい。
好みは分からないが、まずくなければ大丈夫だろう。
スープを作り終え、薬を探す。
棚に救急箱があり、その中に風邪薬が入っていた。
それを取り出し、机に置く。一応、一筆書いたメモと一緒に。
名前は書かなくていいだろう。別にお礼など欲しくはないし、変に気をつかわれては迷惑になる。
タオルだけ冷やそうと、彼の寝ている部屋に入る。
タオルをまた水に濡らし、額に置く。
「お大事に……」
頭を撫で、立ち上がる。
扉に向かうと。
「待って」
はっきりとした言葉に、振り向くが、彼は起きていない。しかし、手が動くのが見えた。
起こしてしまったか。
「ここにいてほしい」
また、彼の声。
病気をすると、人が恋しくなると言うが、それなのだろうか。
「お願いだ」
あまりにも必死な声に、無視するのは、あまりにも酷だと思った。
彼のそばまで戻り、椅子に座る。
「……寝てください」
目は閉じたままだったが、スカイハイの表情が笑みに変わる。
「ああ。最近、忙しかったからね」
やはり。ろくに寝れていなかったのだろう。
「無理は禁物ですよ。ヒーローも人間ですから」
ヒーローは体が資本。ヒーロー自身が倒れてしまえば、どうもこうもない。
その言葉に笑顔が消えた。
「……スカイハイは機械仕掛けらしいよ」
その噂は聞いたことがあった。
素顔を見せていないためか、あまりにも完璧なヒーローのためか。
有名になれば、変な噂は一つや二つ流れる。
「気にしなくていいですよ。あなたがいるから、スカイハイがいるのです」
酷い話だ。彼はここにいるのに。
「しかし、皆が求めているのは、スカイハイだよ」
その言葉に眉をひそめた。
「あなた自身、皆に慕われているじゃないですか」
スーツを着ていなくても、彼は人望があついと聞いている。周りの評判はとても良い。彼をヒーローの中のヒーローだと言う者だっているのだ。
「皆、ヒーローのスカイハイを慕っているんだ」
さも、自分は必要ないと言いたげだ。
言ったではないか、あなたがいるからスカイハイがいるのだと。
「皆さん、あなたの人柄にひかれているのです」
「スカイハイという付加価値がなければ、孤独な人間だよ」
傲慢だと思った。スカイハイの周りには人が集まってくる。スーツを着ていても、脱いでいても。彼のカリスマ性がなせるものなのだろう。
「あなたはひとりじゃない」
あんなに囲まれていて、なにを。
「ああ、今は君がいるからね」
今の話なのだろうか。看病する人間もいないと言いたいのだろうか。それは、連絡をしていないだけだろうに。
「違う。仲間のヒーローたち、ポセイドンラインの人たちも。素顔を知ってもなお、付き合っている方はいるでしょう」
スーツを脱いでも、周りには人がいるではないか。
「私と……違って……」
漏れた本音。とっさに口をふさいだ。
「君も、独りなのかい?」
一緒にしないでほしい。雲泥の差があるのだ。
馬鹿にされたようで、腹が立つ。
「私はいつもひとりだ……!」
父親は顔の痕と言葉と罪を残し、母親は過去に囚われ、今や罵声と畏怖しか与えてくれない。
ヒーローの重圧に負けたヒーローに壊された人生。
そんなものを知らずに、ぬくぬくと育ったお前に、何が分かると言ってやりたかったが、全て飲み込んだ。
立ち上がり、そのまま帰ろうと、歩き出そうとしたが。
「すまない、気にさわったなら謝るから……」
それを阻むように、手が掴まれた。
「一人にしないでほしい」
「あなたの手は、私の手を掴むべきじゃない」
その綺麗な手が、こんな汚れた手を掴むべきではない。しかし、力で敵わなかった。
「一人同士、一緒にいよう。そうすれば、寂しくない」
ヒーローと犯罪者がと嘲笑が溢れた。
「あなたとは一緒にいられない」
手を痛いほど、掴まれている。
「なぜだい?」
「……あなたと私では住む世界が違う」
彼は自分がルナティックだと知ったら、この手はすぐさま離されるのだろうか。いや、捕まえたと離さないか。
「私がヒーローだからかい?君もスカイハイを……」
「それは、違います」
自分が犯罪者だからだ。
「じゃあ、一緒にいてほしい。いてほしいんだ」
熱で浮かされた人間の言葉だ。
真に受ける気もなかった。言っている本人も、覚えていないだろう。
「いてくれないのかい?」
目はこちらの姿を認識した覚えはない。誰に言ってるかも分かっていないはずだ。
握る手を握り返す。
この手を振り払うのは自分か、スカイハイか。
「後悔するのはあなたですよ」
返答はなかった。
ようやく寝たようだ。
少し時間が経つと、掴む手が弱まる。静かに彼から離れた。
家を出るとき、玄関まで犬が見送ってくれた。いつも、ご主人にしているのだろう。
頭を撫で、外に出る。
鍵を閉め、ドアのポストに入れ、そこを後にした。
買い物は諦める。もう目的の店は閉まっている時間だった。
あの時の言葉など、彼は覚えていないと思っていた。
自分ではないと、しらを切ればよかった。そうすれば、この手を握られることもなかったのだ。
「病人のあなたの言葉に付き合っただけです。本気にしないでください」
病人に手厳しくできるはずがない。
本当に忘れてほしい。あの言葉も行為も。
その言葉に、悲しくなる。
「あれも……嘘なのかい?」
あの手を握り返してくれたことも、スカイハイではなく、キースを肯定してくれたことも。全て。
「キースとして認めてくれたことが嬉しかったのに……」
やはり、スカイハイではないとだめなのだ。こんな、スーツを着ていない一般市民など。
力がなくなり、手が滑り落ちる。
目の前の彼は、ため息をつく。
「あなたがいるから、スカイハイがいるのですよ、グッドマンさん」
あの時に聞いた言葉。まっすぐにこちらを見る目は真剣だ。
「誰がなんと言おうと、それは事実なのですから」
彼は、自分が望む言葉を与えてくれる。
とても優しい人なのだ。
こんな人が、自分のそばにいてくれれば。
「私はあなたと一緒にいたい、そして、いてほしい!」
本心を伝えた。