羨望
「ありがと」
「別にいいわよ」
ペトラは髪を友人に切ってもらい、お礼を言って部屋を出た。
切り揃えたくらいなので、見た目では分からないだろう。
立体機動装置の移動の際、邪魔にならないように髪を短くしている女性は多い。長くてもその髪を結わえるのが常識となっている。
肩上で揃えられているこの髪型は昔からだ。これ以上長くしても邪魔なだけで、結わえるのも面倒だ。移動の時に結わえている紐がほどけないという確証もない。些細なことが大きな事故に繋がることもある。
角を曲がった瞬間、誰かにぶつかってしまい、声をあげた。当たった額に手で触れ、紙が落ちる音を聞きながら、ぶつかった人物を見る。
「ご、ごめん。前を見てなかった……大丈夫?」
自分より上にある顔を見上げる。眼鏡は驚いている自分を写す。
その人は調査兵団分隊長、ハンジ・ゾエ。
「だ、だい」
いきなり、額にあてていた手を引きはがされた。
「額を打ったのかい?赤くなっているね……女性の顔に怪我をさせてしまうとは……申し訳ない!」
顔が迫り、その気迫に後ずさりしてしまうが、クシャという音と何か踏んでしまった感触に足下を見れば、ブーツの下敷きになる書類。
「すみません!」
すぐに足を退け、しゃがんで散乱している書類を拾う。踏んでしまったそれはシワが入り、跡が付いてしまっていた。
「大切な書類に……」
一緒にしゃがんで書類を拾うハンジを見れば、気にしなくていいと言う。自分が拾った書類を手渡せば、彼女は受け取るが、腕を掴んできた。
「これ、報告書の下書きだから……それより、君の怪我だよ!」
痛かっただろうと妙に心配してくる。
「少し打っただけですから……」
額からの痛みも、赤みも少し時間が経てば、ひいていくだろう。
「ああ、そうだ!お詫びに、お茶をご馳走するよ、私の部屋においで」
そのまま、引っ張られる。勢いと上官の誘いということで、何も言えずについていくことに。お茶の誘いなどあまりないことに内心、喜びながら。
ハンジは部屋に着くと、椅子に自分を座らせる。彼女は書類を置いて、棚から瓶を取り出し、ティーセットを取ってくると言い、部屋を出ていこうとするので自分が取ってきますと立ち上がるが、再度、座らされた。
「いいんだよ、これはお詫びだしね」
待っててと笑い、ハンジは部屋を出ていく。
一人残された部屋を見渡す。自分たちに割り振られた部屋とはあまり広さは変わらない。
大きな本棚にクローゼット。部屋の角にある棚と隣りあったテーブルには、あの書類と筆記具が置いてある。
報告書の下書きと彼女は言っていた。
壁外調査から数週間は経とうとしている。調査書類の締め切りは過ぎているはずだが、違うものをだろうか。
彼女は巨人の研究を熱心にしている。まるで、何かにとり憑かれたように。自分の研究成果を熱心にリヴァイに説き、鬱陶しいと言われていたこともある。
巨人のこととなると途端に周りが見えなくなるのか、奇異な行動も多い。変人だと言う者も少なからずいる。そんなところを目をつむれば、とても優秀な人なのだが。
「お待たせー!」
明るい声と共にハンジが帰ってきた。その手にはティーセットを乗せたお盆。彼女がそれを机にのせ、並べていくのを手伝おうとしたが、また牽制された。
「任せてよ」
頷き、大人しくすることにする。
瓶を開け、茶葉をティーポットの蓋を開けると、そこに入れていく。いい香りが鼻をかすめる。
「んー、いい香りだ」
彼女は嬉しそうにそう言うとティーポットに蓋をし、瓶を棚に戻しにいく。
「紅茶ですか」
「うん。嫌いかな?」
「いえ、好きです」
「なら、よかった」
彼女は戻ってくるとティーポットを持ち、ティーカップに紅茶を注いでいく。香りが強くなる。
湯気たつそれを自分の前に置くと、彼女はもう一つのティーカップにも注ぎ、ティーポットを置くと、ようやく自分の向かいに座る。
「いただきます」
「どうぞ」
息を吹きかけ、少し冷まし、口をつける。独特の苦味が口の中に広がるが、とてもおいしい。
「おいしいです」
「いいものだからねえ」
紅茶を飲もうとしたハンジの眼鏡が曇り、彼女は眼鏡を外し、紅茶を飲む。
「あのさ、ペトラ」
彼女は再度、眼鏡をかけると自分を見つめてくる。何か顔についているのだろうかと思っていると。
「髪、切った?」
紅茶を置いて、彼女は笑う。
「は、はい」
「やっぱり、短くなってるよね。伸ばさないんだ」
少しの変化も見逃さない洞察力に感心する。自分なら気づかないだろう。
「邪魔ですから」
「私も切りたいねえ」
彼女は頬にかかる髪を指をいじる。
「切らないんですか?」
彼女は長い髪を無造作にまとめているだけで、手入れをしているようには見えない。気にもしていないのだろう。
「んー、こんな見た目じゃない?ますます、男に見えるからやめろってリヴァイが」
「え、兵長が?」
出てきた名前に驚く。
「うん。ばっさり切ろうとした時、巨人も逃げ出しそうなくらいの顔と気迫で迫ってきてさ」
彼女は眉間にシワを寄せる。
「切るなんて俺が許さねえ……だって」
リヴァイの真似だろうか。最初の声が低かった。
「今はリヴァイに切ってもらってるよ。彼、器用だよね」
「え……!」
全く知らない情報だった。羨ましい。彼に髪を切ってもらえるなんて。
「リヴァイに頼んでみたら?あ、私が頼んであげようか?」
顔に心の声が出てしまったのだろう。
部下から上司に頼みにくいだろうから、任せろと胸を叩く。
「い、いえ、友人に切ってもらいます……!」
首を横に振る。手に持っているティーカップの中の紅茶が波立つくらいに。
夢のような話だが、彼に髪を切ってもらう前に自分の心臓がもつかどうか。想像するだけで、こんなにも鼓動がうるさいのに。
「そう?遠慮しなくてもいいよ。気が変わったら、いつでも言ってね」
「は、はい」
頷き、紅茶をまた飲む。
リヴァイの都合もあるだろうに、本当にいいのだろうかと思う。
いや、彼女が言えば、都合がつくのだろう。彼女の頼み事なら、彼はどんなに忙しくても聞き入れてくれるのだろう。例外はあるかもしれないが。
彼女にとっては、それが当たり前で、特別なことでもなんでもないのだ。
やはり、自分が入る隙なんてどこにもない。
口の中に広がる紅茶の味。少し苦味が強くなっている気がした。