触らぬ事件に
「ひばり!」
久しぶりに名前を呼ばれたと、ひばりは笑顔で、久堂の方へと振り返ろうとしたが、後ろの気配にそれを途中でやめた。
「危ないぞ!」
「え?」
切羽詰まった声に見上げれば、街灯に照らされた光る物。
それは、ゆっくりと振り下ろされていく、自分にめがけて。
腕を引っ張られ、それはコートの腕を切る。
頭と背に何か当たる。
前から舌打ちが聞こえ、視線を上げれば、走り去っていく姿が暗闇へと消えていく。
久堂は自分から離れていき、その人物を追いかけたが、少し追いかけただけで、こちらに戻ってきた。
「大丈夫か!?」
「あ、はい」
暢気に返事を返す。
目の前の彼は、顔をしかめ、腕を押さえていた。
「え?先生……それ……」
「斬られたんだ!お前、危なかったんだぞ!?」
直前に、起こったことを思い出す。
光っていたのは、刃だ。それは、自分へと向けられていたが、それは、身代わりになってくれた久堂の腕を切っていった。
怪我をしている。彼は自分の代わりに怪我を。
「……びょう、いん……病院、行かないと……!」
自分の意識がようやく、現実に戻ってくる。
「先生、大丈夫ですか!?」
「痛いな。死にそうだ」
そんな冗談を受け止める余裕は、自分にはなく、口から発せられた死という言葉だけが、頭を回る。
早くしないと死んでしまうと、痛いと怒る久堂を引っ張って走り、病院を目指す。
切られたところは、着ていたものが分厚かったためか、微傷で。
一応、手当てをしてもらい、電話を借り、襲われたことを警察に言った。
どうやら、自分たちが首を突っ込んだ事件は、きな臭いらしい。
嗅ぎ回れたくないことがあるのだろう。
医者に電話と手当てのお礼を言い、待ち合わせ室に戻れば、落ち込んでいる少女。
目の前に立てば、顔をあげる。目が赤い。泣いていたのか。
「せ……」
「帰るぞ」
頭に手を乗せて、言葉を遮ると、ひばりは黙って頷いた。
いつもうるさいくらいの前を歩くひばりは、帰り道も静かだった。歩く速度も遅く、その歩調に合わせる。
彼女が静かなのは、メモを取る時か、本を読んでいる時くらいだ。
怪我をさせてしまったことを、気に病んでいるのだろうか。気にしなくてもいいと言ったが、原因は、彼女が関係もない事件に首を突っ込んだことが悪いのだ。少しは反省をしてもらうことにする。
いつの間にか、作家探偵という名で売れ始めた自分。しかし、本業である本は売れておらず、貧しい生活は変わらず。
自分の家に着き、泊まっていけと彼女の頭を撫でた。一人にするのは危険だ。そして、彼女の家が犯人に知られるのも。
遺産として貰った家は、無駄に大きく広い。ひばりが好きな希少な古書も沢山ある。
貧乏作家とは名ばかりではないかと、よく言われるが、この家にあった家具は、ほとんどを売り払っているため、空き部屋だ。
自分が使う部屋以外は、何年も開けていないし、埃をかぶっていることだろう。
しかも、食事は質素なもので、知り合いに貰う米と漬物しかないなんてことも。何もない時もあるため、ありがたいものだ。
そんな時、空腹で机の上に突っ伏している自分に、ご飯を作ってくれるのは、ひばりだ。
彼女には、少なからず恩がある。自分の小説を好きだと言ってくれ、変人だと言われる自分といてくれる。
彼女に振り回され、文句を言いつつも、付き合っているのはその為だ。
本が落ちる音がし、目を開く。
立ち上がり、机から離れ、お気に入りの長椅子を見れば、背もたれに寄りかかり、寝るひばり。
床に落ちた本を広い、積み重なっている本の上に置く。
一人になるのが嫌だったのか、単に気に入っているここが良かったのか、彼女は黙々と本を読んでいたのだが、睡魔に負けたらしい。
部屋を出て、隣の部屋から毛布を持ってくると、彼女にかける。
また机に戻り、真っ白の原稿を見つめる。
頭の中でこれに書く話を考えてはいない。今回の事件だ。
ただの殺人事件だったはずだ。
その犯人の目星が付いているようだが、あやしい点はいくつもある。
襲ってきた者には、確かに殺意があった。あれで、唯一のコートも残り少ない服も破れてしまった。着れないことはないため、コートは着るが。
自分の腕を切っただけで、諦めてくれて本当によかったと思う。諦めずに、襲うことがあったならば、ひばりが無事な訳がない。
しかし、また襲われるかもしれない。あそこの道は使うことを控えるしかないだろう。夜も出歩くことを控えることにしなければ。
小説のネタが増えたが、少し痛む腕に、痛い代償だと苦笑するしかなかった。