残されたハンカチ
ディオは痛む腕をさすりながら、歩いていた。
父親のダリオの機嫌が悪かったのか、家に帰ったらいきなり酒瓶を投げつけられたのだ。
しかも、それで酒がなくなったからとさらに八つ当たりされ、酒を買ってこいと外に放り出された。
ポケットに入っている薬代を酒にあてるしかない。稼いできたダリオの薬代だ。まだ日が沈んでいない時間から酒を飲む元気はあるのだから、今は薬より酒を与えていた方がいいだろう。
「ん?」
歩みを止めた。野良猫の声かと思ったが、前からゆっくりと歩いてくるのは小さな子供。うつむきながらも、しゃくりあげている。
「おい」
前に立ち、声をかけると、ビクッと肩を跳ねさせ、顔をあげた。
短いくせッ毛の暗い髪色に見上げる蒼い目は涙で濡れ、水の中で揺れている。着ている服は綺麗なもので、ここの住人ではないことを示していた。
「おまえみたいなやつが来るところじゃあないぞ」
ここは所謂、貧しいものたちが集まるところだ。少年はここでは金にしか見えないだろう。着ているものは素材がいい。たちが悪いものがいれば、服だけではなく彼自身も危ないだろう。
「お……おとう、さんたち……いなくて……探してて……」
涙を拭いながら、彼は震える声で言葉を紡いだ。
「はあ……迷子か。ぼくに会えたことを感謝するんだな」
よりによってなぜ、こんなところに迷い込んだのか。父親がこんなところにいるのかは知らないが、彼の父ならこんなところには用はないだろうに。
彼はとても運がいい。他の者に出会いなどしたら、ろくなことにならなかっただろう。
自分は自分より小さな子供に何かしようとは思わない。
「入口まで連れていってやろう。父親もおまえを探しているはずだからな」
大人でもここには近寄りがたいだろう。子供がこんなところに入っていったとは思っていないはずだ。
「ありがとう……ございます……」
彼はまたうつむいて泣き出す。泣き虫な子供だと呆れてしまった。
「いくぞ。男がいつまでも、めそめそ泣いているんじゃあないぜ」
「う、ん……」
自分が歩き出すと、彼は涙を拭いながら、後ろからついてくる。
少しだけ少年が羨ましく思った。泣くことを許される環境が彼にはあることを。
入口に向かうため、少し歩いたが、怒声が聞こえてきて、立ち止まる。
「な、なに……?」
後ろからついてきている彼が服を掴んできた。
道の真ん中で殴り合いの喧嘩をしているのが見え、あまり子供に見せるものではないだろうと迂回することにした。
狭い路地を歩いていたが、曲がろうとした先で男と女がまぐわっているのが見え、立ち止まり、彼に待てと声をかける。
汚らわしいと内心、吐き捨てつつ、後ろにいる彼を見ると、不思議そうにこちらを見ていた。
「違う道を行くぞ」
自分を見つめる眼はまだ綺麗なものしか知らないだろう。あんなものを見るのは大きくなってからでいい。
「うん」
少し引き返し、狭い路地を曲がれば、いきなり人が現れ、自分は突き飛ばされた。
「!」
「うわっ!」
後ろにいる少年にあたらないよう倒れる体をよじり、地に倒れた。閉じてしまった目を開けると、自分にぶつかった人物が走り去っていくのが見える。
「だ、大丈夫……?」
「……ああ」
起き上がるために手をつけば、鋭い痛みが走る。
そこを見れば、ガラスの破片が散らばっており、それで手を切ったのだと分かった。
ついていないと思いつつ、立ち上がり、手を見れば、やはり血が滲んでいた。
「血……! あ、あの、これ」
少年がポケットから取り出したのは白いハンカチ。止める前に自分の手のひらに押しつけられた。
「ど、どうしよう……やっぱり、痛いですか?」
「……ちょっとな」
ハンカチを持ち上げれば、それは血で汚れてしまった。もういいとそのハンカチで傷口を覆うことにし、そのままくくりつける。
「いくぞ。ちゃんと、ついてこいよ」
裏路地は入り組んでいる。はぐれてしまったら、彼はどこにいるかも分からないだろう。
「掴んでろ」
手を差し出せば、彼は恐る恐るその手を掴んできた。
その手を引っ張り、歩き出す。
貧民街から街への出口まで来ると声が聞こえた。
「坊っちゃまー! どこですかー!?」
その声に反応したのは少年だ。
「あ! 爺やの声だ!」
彼は手を離し、前に出る。
爺やという存在がいるのは上流階級の人間だけだ。やはり彼と自分がいる世界は違うのだ。早くここを出ていくべき存在。
「ほら、さっさと行け。もうこんなところに来るんじゃあないぞ」
前にいる彼の背中を軽く押す。
「ありがとうございます!」
彼は自分にお礼を言うと駆け出していく。
その姿を見送ることなく、背を向けたが、手を覆うハンカチに気づき、振り返るが少年の姿はもうなかった。
出口まで案内した礼にもらうことにし、酒を買いに行くために酒屋を目指した。
酒を買って、自分の家に帰ると、家の扉が開いており、不審に思いつつ、入口に近づくと、鉄臭い匂いが鼻をついた。
「……!」
扉を開けば、部屋の中は荒らされ、ベッドのそばに倒れている父親がいた。赤い液体が床に流れているのも見えた。
「父さん!」
酒を放り、その体を揺する。
しかし、何も反応はなく、ピクリとも動かなかった。
近くには血にまみれたナイフが落ちていた。これで彼は刺されたのだ。
家を飛び出し、隣の住人に警察に通報してくれと頼んだ。
父親は病院に運ばれたが、もう手遅れだった。
警察には自分が帰ってきたときには父親が殺されていたことを伝えたが、それ以上の情報はなく、部屋も漁られていたため、物盗りの犯行だろうと担当の刑事は言った。
自分はどうでもよかった。犯人が捕まっても、捕まらなくても。もうあんな生活をしなくていいことに安心をしていた。少しは生きやすくなるだろう。
母はもう亡くなっており、親戚などいない幼い自分は孤児院に行くことになった。
立ててやった父の墓に唾を吐き捨て、その孤児院に向かうため、まとめた荷物を持って歩き出した。
警察に渡された孤児院への地図とメモを頼りに、バスに揺られ、着いたのは郊外の教会だった。教会のそばにある大きな建物が孤児院なのだろう。
教会か孤児院か、どちらに入ろうか迷っていると声をかけられた。
「君がディオかい?」
振り向けば、黒人の神父がいた。優しそうな笑みを浮かべている。
「そうです。今日からお世話になります……神父様」
手を差し出せば、彼は手を差し出してくる。
「わたしはエンリコ・プッチ。よろしく、ディオ」
握手を交わしたが、彼は自分の姿を頭から足まで見ると首を傾げた。
「ディオ……というのは愛称だろう? しかも、その格好は……」
「ああ、名前はディオナ・ブランドーです。これくらいしか綺麗な服がなかったもので」
自分は女だが、着るものは全て男物だった。近所のお下がりを貰っていたので、こんなものしかなかったのだ。
「そうだったのかい……。中を案内しよう。ここにいる皆に君を紹介しよう」
彼は孤児院への方へと歩いていく。自分はそれについていった。
孤児院はまだ最近できたものらしく、集まった人数は少ない。
「今日から、みんなと過ごす、ディオナ・ブランドーだ。仲よくするように」
「……よろしく」
挨拶する自分を興味津々に見る子供たちは自分より幼い。神父によると自分は最年長らしい。
あの日の子供を思い出す。ハンカチをくれたあの迷い子。
ハンカチにはジョナサン・ジョースターと書かれていた。あの子供の名前なのだろう。
坊ちゃまと呼ばれていた彼はいいところの家の子供なのだろう。自分とはまた違う世界に住んで――。
「ディオナは男の子……?」
「いや、女だ。あと、ぼくのことはディオと呼んでほしい」
皆が自分の前にこぞって出てくると自己紹介をしてくる。それを終えると、プッチが自分の部屋と建物を案内をしてくれると言うのでついていくと子供たちもついてきた。
皆の説明を聞きながら、建物を歩き回った。
ディオが孤児院に預けられ、数週間が経とうとしていた。
ここの孤児院には神父の他に自分たちを世話をするシスターもいた。洗濯、掃除は皆でやるのが決まりだが、食事は彼女たちが作ってくれていた。
寝室は相部屋だったが、一人、一人にベッドがあった。
やはり教会があるので、日曜になるとお祈りはしていたが、神を信仰するかしないかは自由だとプッチ神父は言っていた。
ディオは神を信じてはいないし、信じる気もなかった。どれだけ神に祈ろうとも自分の環境は変わりはしなかったのだから。
信仰しろと言われるなら、振りくらいはしただろうが。
孤児院から学校は通わせてもらった。自分は母親が亡くなるまでは学校に通っていたが、母が亡くなると休みがちになっていた。
久しぶりの学校は色々あったが、楽しかった。
親がいなく、転校してきた自分は最初は馬鹿にはされたが、実力を見せつけることで周りを黙らせていた。段々と友人たちもでき、勉強ができることも楽しかった。
孤児院に帰れば、他の子供たちに勉強を教えたり、遊ぶのは日課になっていた。
よく世話をするお礼だとシスターたちはこっそりおやつもくれたりした。
久しぶりの子供の日常を過ごしていて、自分は貧しく暮らしていたことを忘れようと新たに作られていく思い出を重ねて奥深くにしまっていった。