神の戯れ
「こんにちは」
この場所に訪ねてくる人物は極僅かだ。朝と夜の、生と死の狭間。普通の人間ではここには、やって来れない。そう、普通のだ。
イヴェールは、そこに立つ人物に驚きつつも、近寄っていく。
「陛下」
優しそうな笑顔を浮かべたサングラスをかけた長髪の男性を、自分はそう呼んでいる。自分たちの創造主である彼が、そう呼べと言ったのだ。
彼はこの地平線をつくった張本人。普通の人間ではない。創造主なら、ここに来れるのも簡単だ。神と言っても過言ではない。彼はそんな大層なものではないと否定するけれど。
彼は人を抱いている。ローブを深々と被り、顔は見れない。が、それは誰か分かっていた。彼が訪れるときは、その人がいつも一緒だからだ。
「また、ですか」
彼は彼女を連れてここに何度も来た。そして、今後も来るのだろう。
「この子も限界でね」
彼の彼女を見る目はとても悲しい。
「起きて、ノエル」
その言葉に反応し、今まで動かなかった彼女が動いた。顔を動かし、自身を抱いている男を見ているのが分かった。
「だ、れ……」
創造主の存在を知らない者がほとんどだ。自分も会うまでは知らなかった。極稀に知っている人物もいるらしいが、知っていても、会ったこともない人物の容姿を知るすべはない。
「ほら、イヴェールがいるよ」
彼は柔らかな笑顔を浮かべる。
彼女はこちらを見る。黒々とした目は、何度見ても慣れない。狂喜と闇だけを湛えている。
「にい、さま……」
違うのだと言いたい。何度、言えども彼女の耳は聞き入れてくれないけれど。彼と自分はイヴェールだが、違う存在。彼女の兄は――もう死んでいる。
彼女は被っていたローブを外すと。乱れた髪に、少し痩けた頬に、青白い肌が晒される。兄様、兄様と呼びながら、細い指がこちらに伸びる。
彼女の目には、頬にある刺青も、色が違う両目も見えていないのだろう。兄にはなかったのに。
彼女を抱く男は、彼女をおろす。二本の足で立つ彼女は、ふらりと一歩ずつゆっくりと歩いてくる。自分のそばまで来ると、白い手で自分の胸に触れた。
「ああ、兄様……!帰ってきてくれたのね……!」
触れられることに笑みを浮かべながら、涙を流している。幻ばかり追いかけていた、偽りの手紙を真実と思い込む日々を送っていた彼女には、触れられる自分の存在は唯一無二なのだろう。
「おかえりなさい、おかえりなさい、兄様!」
彼女は体の腕を回し、胸に顔を埋める。彼女が流す涙を服は吸いとっていく。
「ずっと、ずっと待っていたの。皆、兄様は帰ってこないって言うのよ。兄様は生きてるのに、手紙を送ってくれるのに」
彼女は胸に顔を埋めるのをやめ、こちらを見上げる。正気を失った目には、兄しかうつっていない。
「ねえ、私、お金なんていらないわ。どれだけ貧しくても、いい。兄様と一緒にいたいの。もうどこにも行かず、私のそばにいてくれるわよね?ずっと、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっと」
体に回る腕が離れ、手が頬に触れる。兄にはなかった刺青を隠すように。その手から、体温は感じられない。
「ずっとずっとねえにいさまねえイヴェールにいさまいっしょにずっといてずっとずっとねえ」
一定の言葉を繰り返す彼女の体は、崩れていく。本人は気づく様子はない。さらさらと白い砂が地に落ちていく。当の昔に朽ちていくはずだった体だ。限界が来たのだろう。
「ノエル」
名前を呼べば、彼女は言葉を切り、幸せそうな笑みを浮かべる。
そんな彼女を抱きしめようとしたが、一気に彼女は砂に変わり、山となった。どこからともなく吹く風がそれをさらっていき、後に残るのは、彼女がはおっていたローブだけ。
「何人目だっけ?」
そう聞きながら、創造主はそのローブを拾い上げる。笑っているような悲しんでいるような曖昧な表情だ。
「さあ……」
数え切れないほどの妹が来ている。
今回の彼女は、幸せそうに消えていった。前回は死なない自分を道連れにしようと首を絞めてきた。その前は、消えていることに気づき、嫌だと自分に綴りながら消滅した。その前は――。
「イヴェール様」
いつの間にか、自分のかたわらには、オルタンシアとヴィオレットがいた。オルタンシアは涙を流し、ヴィオレットは無表情で自分の手を握っている。
「やあ、ご機嫌よう。双子の人形」
陛下は彼女たちに笑顔を向ける。
「ご機嫌うるわしゅう……陛下」
二人が挨拶をすると、彼は変わりないね、と満足そうだ。
「邪魔したね。ありがとう、イヴェール。見送りはいいよ」
彼は、自分たちに背を向け、手を振りながら、扉へと歩いていく。それを開け放つと、何もない空間。ぽっかりとただ黒い空間があった。
「じゃあ、またね」
彼はこちらを向いてそう言うと、その空間に飛び出す。ゆっくりと扉が閉まり、彼の姿を消した。
彼はまたねと言った。また彼女を連れてくるのだろう。兄を失ったことを認められずに、壊れていった彼女を。
なぜ、自分のところに連れてくるのか聞いたことがある。
「それは、君がイヴェールだからだよ」
サングラス越しに見えた目が冷ややかだった。笑顔を浮かべているのに。
オルタンシアの前でかがみ、手で涙を拭うが、止まらない。彼女が流す涙は自分の涙だ。感情を持たない自分の気持ちが二人に反映される。主に喜びはヴィオレット、悲しみはオルタンシアへと。
自分は酷く悲しんでいるのだろう。
「ごめんね、オルタンシア」
オルタンシアは頬を拭う手を握り頬から離してから、その手を離すと、首に腕を回してくる。それを受け入れるため、膝を地に付けた。胸に頭が抱かれる。
「いいえ、謝らないでくださいませ。これが私たちの役目でございます」
「そうですわ、イヴェール様」
ヴィオレットは背に寄り添ってくる。二人の温もりが体に伝わってきた。錯覚なのだろう。人形は体温を持たない。
「ありがとう」
オルタンシアの背に腕を回し、目を閉じた。
男は胸にローブを抱きながら、空間に身を任せていた。黒一色に塗り潰され、どこが、前後左右か分からず、落ちているのか、上昇しているのかも分からないが、男は慌てもせずに、静かに目を閉じている。
地平線の間は曖昧だ。それを具現しているような空間。
「ああ……そうだ、ノエル。君の地平線を作ろう。今度は君が主役だ」
彼は嬉しそうに笑い、目を開け、抱いていたローブを目の前に広げる。
「新たな地平線。君の愛しい兄はいないけれど……いや、妹の君はいないけれど……」
男の目の前の空間に淡い光が集まってくる。そこにローブを入れると、光にとけていく。
「きっと素敵な物語ができるよ」
淡い光はローブを取り込み、丸い球体となる。その中にぼんやりと浮かんだ男の姿。イヴェールによく似ている姿だった。
彼がその球体に手を伸ばすと、それは一層、光を放ち、彼をのみ込んでいった。