紫は死を見る
「エレフ」
名前を呼ばれ、目を開ける。自分の目の前には二人の少女。
「なんだ、ミュー、フィー」
冥府の王に仕える双子だ。少女と言ったが実際のところは分からない。見た目と声は男ではないので、そう認識しているだけだ。
「タナトス様、消エタ」
「タナトス様、何処ニモイナイ」
「はあ?」
彼はここを治める王だ。ここにいるはずなのだ。もしかしたら、向こうの世界に死者を迎えに行っているのかもしれないが。
彼はどこにでもいるのだ。彼は死そのもの。いないということはあり得ない。消えることもない。
「どういう意味だよ?」
「何処ニモイナイ」
「コノママダト、人、死ナナイ」
無表情の顔は変わらない。声も淡々としている。困っているようには見えないが。
「エレフ、タナトス様、探シテ」
「エレフナラ、見ツケラレル」
一層、二人が迫ってくる。見上げる目の光が揺らいでいた。困っているようには到底、見えないが困っているようだ。主人がいないのは、二人にとっては大問題なのだろう。
「なんで、私なんだ?」
「エレフハ」
「タナトス様ダカラ」
未だにその意味が分からない。ここに来るときも、彼は言っていた。
「オ前ハ我ダ、息子」
そう言って笑っていた。
冥府に来る前から、人の死を見ることはできた。まとわりつく黒い影が、死なのだと気づいたのは遠い昔。思い出したくもない、あの苦い過去。
その不思議な力は彼の能力なのだろうと思う。
いきなり、手が引っ張られる。握られている手の冷たさに溺れた海を思い出す。
「エレフ、探シテ」
「どうやって」
「目ヲ閉ジテ、タナトス様ヲ、頭ニ思イ浮カベテ」
言われた通りに目を閉じ、探し人、いや、神を思い浮かべる。しかし、神がいなくなるなど、どういうことなのだ。
暗闇に少しずつ浮かぶ、彼の姿。狭い部屋に横たわる彼。眠っているような。
「見失ワナイデ」
二人の声が重なり、体が何かに包まれた感触に目を開けた。
「な、なんだ!?」
布なのか、何かが目の前で波打っている。黒と紫色をしているそれは何なのか。
「ア」
次の瞬間、落ちていく感覚。それは、本当に落ちているようで。目の前のものがなくなると、眼前に広がるのは、大きな塔。
天に届きそうなそれは、蔦が壁に絡み、建てられてから結構な年数が経っているようだ。
「エレフ」
「落チテル」
「分かってるよ!」
少し現実逃避をしていたが、段々と地上が迫っている。
呑気に重力に従順になっている二人。彼女らは、人間ではないため、落ちても大丈夫だろうが、自分は人間だ。死んでいるとしても。
「エレフ、手」
「手?」
二人が手を伸ばしてくるので、その手を掴む。やはり、その手は冷たい。
いきなり、落ちる速度が遅くなった。これなら、地に叩きつけられることはないだろう。
しかし、地上目前でその力はなくなり、いきなり落とされ、自分だけ転んでしまった。
二人がタナトスと同じ目で見下ろしている。手を伸ばし、起こしてくれるということはないらしい。
地に手をつけ立ち上がり、目の前の塔を見上げる。
「エレフガ、目ヲ開ケルカラ」
「入レナカッタ」
「私のせい……なのか」
見失わないでとはそういう意味なのだと理解する。タナトスのところまで、行く気だったらしいが、自分が驚いて目を開けたのが、いけなかったらしい。
「ココニ、タナトス様ガイルハズ」
二人は入口へと向かっていき、大きな鎌を出現させると、その鉄の扉を切り刻む。普通に開ければいいと思うのだが、二人には重いのだろうか。
さっさと入っていく二人に続き、中に入れば、塔は壁に添うような螺旋階段が上に続いていた。見上げると天井は見えない。上るには、一苦労しそうだ。
「ウッ」
「フィー」
聞こえた声に、見上げるのをやめると、ミューが倒れそうなフィーを支えていた。
「どうした?」
二人に近寄れば、二人が見上げてくる。
「私タチ、通レナイ」
階段は石でできた普通の階段だ。そこには、扉もなく壁もない。フィーが手を伸ばせば、白い光が弾け、彼女の指を拒んだ。
「弾カレル」
「デモ、タナトス様、ココニイル」
ミューとフィーは通れない。
「……分かったよ。ここにいろ」
自分も通れるか分からないが、そこに手を伸ばした。弾かれない。拒まれない。
自分だけ、ここを上らないといけないのかと思うと憂鬱になるが。
階段に足をかければ、いきなり周りの風景が変わった。白い壁に挟まれたまっすぐな階段が続いている。
「なっ……」
後ろを見れば、二人はいない。代わりに黒い扉が鎮座していた。
その扉に持つところはなく、手でその扉を押したが、何も変わらない。
「おい! ミュー! フィー!」
呼びかけても返事はない。
叩いてみたが、自分の手が痛いだけ。
「……クソッ」
進むしかないと、階段を一歩、一歩、上がっていく。
振り返って、扉が見えないことを確認する。目の前の景色は変わらないが、進んではいるようだ。
黙々と進んでいけば、見えたのは、鉄格子。
階段を走って上り、中を見れば、そこには、隅でうずくまる人。黒く、床に付くぐらいの長い髪、床に広がる紫の布。
「タナトス!」
名を呼べば、体を少し震わせ、こちらをゆっくりと見た。
驚いた表情でこちらを見ていた。
「……誰?」
「何、言ってんだよ!」
声を荒げると彼は怯える。まるで、子供のように。
「タナトスノコト、知ッテルノ?」
低い声に似合わず、口調が幼い。
「知ってるも何も……」
「タナトスノコト、嫌イ?」
こちらを見る目は、まだ怯えていた。
「皆、タナトス嫌ウ。イラナイ子ダッテ」
彼は本当に小さな子供のようだった。いつものあの笑みや、傲慢だと思う態度、馬鹿にしたような口調がない。
「タナトスヲ嫌ワナイデ、オ願イ、嫌ワナイデ……」
そう言うと涙を流す彼。いきなり、泣き出したことに驚いていた。彼は嫌わないでと繰り返す。
本当にタナトスなのだろうか。自分が知っている彼ではない。涙を流すことも、こんなに怯えたところも見たことがなく。
しかし、彼は自分のことをタナトスと言っている。
「タナトス」
涙を流しながら、こちらを見る。
「私は嫌いじゃない」
彼は嫌いではない。彼には、妙な親近感を感じている。それは、まるで家族といるような。ミーシャといた時と同じように。
「本当? ホント?」
彼は嬉しそうに笑う。
「タナトスト一緒ニ、イテクレル?」
「ああ」
頷く。彼とは一緒にいなければならない。そういう運命なのだと、彼が言ったはずなのに。
「だから、ここを出るんだ」
「出テモイイノ?」
彼が動くと、鉄の擦れる音がした。見れば、紫の布から鎖が出ている。それは、壁に繋ぎ止められていた。
「出られるか?」
彼は鎖を引っ張り、頭を横に振る。
しかし、彼を助けようにも、この鉄格子が邪魔だ。見れば、鍵はないようで、押しても引いても、何も変化はない。
黒い剣を出現させ、それを斬ってみようと、斬りかかったが弾き返された。
「……!」
振り返る前に後ろから殴られ、視界が暗転した。
タナトスはただ見ているだけだった。倒れた男性が鉄格子をすり抜け目の前に倒れる。
何かが彼を殴ったはずなのだ。それをした犯人はいるはずなのだが、見えない。
「大丈夫!?」
男性に呼びかけても、反応がない。体を揺さぶったり、叩いても、動かない。
自分と一緒にいてくれると言ったのに。
「ウッ……ッ……」
また涙が溢れた。
そう言って、皆、自分の前からいなくなる。
仲良くしようとしても、手を伸ばしても、それは払いのけられ、目の前からいなくなる。
優しかった母も、いつの間にかいなくなってしまった。
「泣くな……」
手が伸びてきて、頬に触れる。
彼が目を開けて、こちらを見ていた。
冷たい滴が顔にあたり、目を覚ました。
するとタナトスが泣いていた。
昔の自分を思い出す。よく自分も泣き、その度に妹に慰められていた。
泣いたのは妹が死んだ時が最後だ。その後、泣く暇はなく、ただ復讐に囚われていた。
濡れている頬に触る。冷たい。温もりなどここにはないのだ。
起き上がると、後頭部が痛む。自分は何かに襲われ、なぜか鉄格子の内側にいる。
「大丈夫……?」
「なんとかな」
「ヨカッタ!」
タナトスが抱きついてきた。突き放そうとしたが、泣きながら、喜ぶ姿を見てそのままにすることにした。
「ズット、タナトスト一緒!」
「ああ」
「……ソウ、一生一緒ダ、息子ヨ」
口調がいつもの調子に変わり、こちらを見る目はあのよく知った目だった。浮かべる笑顔も純粋なものではない。
「来テクレテ嬉シイゾ。オ前ノオカゲデ厄介ナ呪イガ解ケタ」
どうやら、幼児退行していたのは彼にかけられていた呪いのせいらしい。
「離せ!」
彼を突き飛ばし、離れる。
「オヤ、ツレナイナ。マア、イイ。ミュー、フィー」
彼が双子の名前を呼ぶと、壁から大きな鎌が現れ、部屋が斬られて、その裂け目から、闇へと妙な浮遊感と共に落ちていく。
「オ帰リナサイマセ」
「タナトス様」
彼の横には双子。
「心配ヲカケタナ」
大きな手が二人の頬に添えられ、二人は猫のように頬擦りしていた。
「サア、帰ロウ」
彼がまとっている布が広がり、自分はそれに包まれ、静かな暗闇に囚われた。
「エレフ」
目を開けるとエレフを見下ろしている妹がいた。探し求めていた自分の片割れ。
「ミーシャ!」
起き上がり、彼女を見る。
自分と同じく成長している。血も流していない。こちらを見て驚いて見開いた目は輝きを宿している。
「ああ……よかった……!」
彼女を抱きしめる。もう離すことはない。
「どうしたの、エレフ」
くすくすと笑う声が耳に届く。
「私はずっとここにいるのに」
彼女はその細い体を預けてくる。
「私はずっとここに、いたのに」
突然、嗅ぎ慣れた匂いが鼻をつく。
「……ミーシャ?」
足元にみずたまりができていく。色がついている。
「待っていたのに」
彼女の腹から止めどなく血があふれている。
ミーシャの体が腕からすり抜け、離れていく。血の中に吸い込まれていく。
「……エ、レ……」
自分に伸ばされる腕。月をつかみたいと何度も伸ばしていた。
その手をつかもうとしたが、彼女は広がった血の海へと沈んでいった。
虚空に伸ばされた手をタナトスは掴む。
「ミー……シャ……」
自分が抱く分身は、片割れの名を呼ぶ。
「私ト、一緒ニイテクレルノダロウ」
エレフは自分のものだ。誰にも奪われてなるものか。
紫の色で染められた眼で見るのは、自分だけなのだから。